日本被団協ノーベル平和賞

ノルウェーのオスロ市庁舎で12月10日、ノーベル平和賞が日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与された。

ノルウェー・ノーベル委員会
ヨルゲン・ヴァトネ・フリードネス会長によるスピーチ

「私たちの前途にはーーもし私たちが選べばーー幸福や知識、知恵の絶え間ない進歩が広がっています。私たちはその代わりに、自分たちの争いを忘れられないからといって、死を選ぶのでしょうか?私たちは人類の一員として、同じ人類に対して訴えます。あなたが人間であること、それだけを心に留めて、他のことは忘れてください。それができれば、新たな楽園へと向かう道が開かれます。もしそれができなければ、あなたがたの前途にあるのは、全世界的な死の危険です。 それができれば、新たな楽園へと向かう道が開かれます。もしそれができなければ、あなたがたの前途にあるのは、全世界的な死の危険です。*」

 1955 年にバートランド・ラッセルやアルバート・アインシュタインをはじめとする世界の著名な知識人たちは、このような問いを投げかけました。その有名なマニフェストは、核戦争の危険性を世界の指導者たちに訴え、国際紛争を平和的に解決する方法を模索するよう促しました。今日、私たちは改めて自問しなければなりません。私たちは人間性を忘れてはいないでしょうか?人類は光に向かって歩む道を選んだのか、それとも破壊と死への道を歩み続けるのでしょうか?——

代表委員 田中熙巳さんの演説全文

 国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

 私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張にあらがい、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺戮(さつりく)兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。

 この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として1万2千発の核弾頭が地球上に存在し、4千発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗(しつよう)な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りないくやしさと憤りを覚えます。

 私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。

 1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕(きょうがく)し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けていきました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

 長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。私と母は小高い山を迂回(うかい)し、峠にたどり着き、眼下を見下ろしてがくぜんとしました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃虚が広がっていました。れんが造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。

 ふもとに下りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されているたくさんの人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

 一人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。

 もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死(ひんし)の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で荼毘(だび)にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。

 その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

 長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15%は中性子線やガンマ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

 その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被曝(ひばく)し生存していた人は40万人あまりと推定されます。

 生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の10年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

 1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被曝する事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被曝して急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原(りょうげん)の火のように日本中に広がったのです。3千万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。

 結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。

 運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。

 1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償はかたくなに拒まれたままでした。

 1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

 1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

 もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいと思います。

 これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

 私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。

 1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。

 1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

 核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

 2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展しました。

 2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122カ国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。

 さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。

 想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4千発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。

 一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた「NPO法人・ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

 世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。

 人類が核兵器で自滅することのないように!!

 核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!

https://youtu.be/X-tgLBE7n9Q?si=npOzdbAjphKdsc-z

関連リンク
⚫︎ 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)
⚫︎ PO法人・ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
⚫︎ 核兵器 – 脅威にどう対抗するか(2024年ノーベル平和賞フォーラム、12月11日)

廃炉への道全記録2021 「原発事故10年の軌跡」

たまたまTVで流れていた、廃炉への道全記録2021 「原発事故10年の軌跡」を見ました。改めて、原発は作ってはいけない施設だと感じました。

番組に登場する日本原子力学会廃炉検討委員会・宮野廣委員長は、トリチウム水は飲んでも害はなく、海洋放出は適切であり、問題は風評被害だと言っている人物です。

宮野廣「脱原発を進めるとどうなるの?メリットと意義は?」の動画の中で——広島、長崎の原爆では21万5千人の人々が亡くなったが10年で人口は増え元の人口に復興した。かたや福島では原爆に比べて死亡者は少ないけれど元に戻っていない、その主な原因は原発(放射能)ではなく風評被害で有る——とのこと。

廃炉検討委員会の会長がばりばりの原発推進派で「放射能は安全」と言っている人物に適切な廃炉が行えるとは思えないです。。。

番組中に氏が何度も言う「放射線廃棄物をの処分は福島だけでなく国民全体で考えるべき」は紛れもなく、NUMO(原子力発電環境整備機構)の放射性廃棄物・地層処分の全国への受け入れや、再処理施設へつなげようとする明確な意図を感じます。今後も原発を作る続けるためには必要不可欠な事なのでしょう。

恣意的な「みんなで考えてね」という宮野氏とは対照的な小出裕章氏の言葉を載せておきます。

『そして、今、子どもたちが被ばくさせられている。それを見て見ぬふりをするなら、そんな私を私は許せない。福島原発事故の被害者の苦難を少しでも軽くすること、そして原発を廃絶するために、私に残されている力を使おうと思う。』

(4月30日 Facebookに投稿)

[NHKスペシャル] 東日本大震災 原発事故10年の軌跡を見つめて| 廃炉 | 東日本大震災から10年

「過密化」する風力発電

【山本太郎 秋田の母と環境大臣 全国ツアー秋田編 れいわが始まる!!】より

秋田県全体では国定公園区域外の南北100キロメートルにわたり520機もの計画があるという。エネルギー政策を地方へ押し付ける再生エネルギー推進の考え方は原発と同じまま。何にも変わってない。辻村さんによれば洋上風力の自然への影響というのはよくわかっていないためヨーロッパなどでは生物情報があるところは避けるように作られているが日本ではほとんど考慮されていないという。

参考:「過密化」する風力発電 国も大規模構想 「景観破壊」住民は反発 秋田 https://www.sankei.com/region/news/191003/rgn1910030018-n1.html

上の記事の中に、20年目の建て替え予定のある風車について「景観も配慮して風車を大型化することで設置数を24基から7基に減らす」と説明。風車の全高は160メートルと倍近くなるが、景観が改善する可能性が高い。」と書かれているが全く理解できない。

『ゴミとエネルギーは小さな単位で行う方がいい』ということが見えてくる。

 

大道和尚と但馬・丹後の日本海沿岸の原発計画

3月27日(日曜)は歴代和尚の法要でした。

先先代住職の大道和尚(釈 大道)の50年の法要も行いました。政治問題とは距離を置きたがる仏教界にあって、大道和尚ははっきりとした意見を表明される人物だったようで、『共産党の和尚』と呼ぶ人もいます。2011年の東日本大震災の後、いろいろ調べている中で、過去の地元の火力発電・原発誘致についての記事を書かれたブログを見つけ、岸田川に持ち上がった大規模火力発電への反対運動に大道和尚も中心になって参加されていたことを知り感慨深いものがありました。記事のデーターを頂き以前このブログにアップしていたつもりでしたがどうしても見つからないので、もう一度ここに掲載しておきます。

*火力発電については、現在原発に変わる電源として無くてはならない存在ですが、当時の火力発電の公害の問題はかなり深刻で、現在の原発と同等なほどの捉え方だと考えます。1961年私はこの地に生まれました。高度成長期の真っ只中、大量の電気の消費が始まり、大規模な公害、複合汚染が始まりました。ですから、『原発とともに生まれ育った者』という責任のようなものを感じています。その原発が末代まで、想像もできないほどの年月にわたりというか、もしかして永遠に害を及ぼすのだということに我慢ならないのです。

高浜原発が再稼動したものの、現在裁判の結果により一時停止していますが、あくまでも一時停止です。推進派はなんとしてでも稼動を再開しようとあの手この手を考えています。経済最優先で一時的なほんの一時的な理由で。高浜原発については、『原発の地元とは?』ということを考えさせられます。

【但馬・丹後の日本海沿岸の原発計画】

記事にもあるように関西電力は1960年代の初め『香住町下浜地区の海岸に出力120万kw規模の原発を計画』していましたが、香住町は1965年に「原子力発電誘致対策委員会」を発足させ様々な勉強会を開いて行きます。そんな中、丹後、但馬の日本海沿岸に限りなく近い高浜原発に1969年12月12日 に1号機(出力82.6万kw)の設置許可が下り、1974年に1号機が営業運転を開始しました。同年に関西電力は丹後半島に『丹後半島に240万kw規模の原子力発電所を建設する構想』を発表します。

SCN_0001a

SCN_0001b

放射線の影響~甲状腺がんと原発事故

Fukushima Voice version 2
福島原発事故後の意識の変化に向けての情報の共有化>岡山大学・津田敏秀教授 日本外国特派員協会での記者会見の動画と読み上げ原稿より

>2015年10月8日に、岡山大学の津田敏秀教授が、日本外国特派員協会(FCCJ)で記者会見を行った。米国時間の2015年10月6日午後に、国際環境疫学会(International Society for Environmental Epidemiology)が発行する医学雑誌「Epidemiology(エピデミオロジー)」に福島県民健康調査・甲状腺検査1巡目の結果を疫学的に分析した論文がオンラインで先行発表されたので、その論文の内容を説明し、質疑応答を行った。下記に、記者会見告知の和訳、記者会見動画(日本語、英語通訳)、そして会場で英語版が配布された、記者会見の読み上げ原稿の日本語原文(津田氏の許可あり)を掲載する。会見では、実際の読み上げ原稿よりも詳細な説明がされており、スライドを見せながらのミニ・レクチャーも展開されたので、ぜひ、動画の視聴をお勧めする。なお、同内容の英文記事はこちらである。

スクリーンショット 2016-03-17 20.02.03

2015100803

【津田教授記者会見津田教授記者会見原稿より 4.公衆衛生の専門家として】
http://fukushimavoice2.blogspot.jp/2015/10/blog-post.html…
提言の終わりとして、これまで福島県内では、「原発事故によるがんの多発はない」あるいは「多発があったとしても分からない」というような説明の仕方が一貫してなされてきました。このような言い方は、次の2 つの条件が両方成立することによって成り立ちます。すなわち、①100 mSv 以下の被ばくでは被ばくによるがんが(過剰)発生しない、②福島県内においては100 mSv を超える被ばくはなく100 mSv を遙かに下回る被ばくしかなかった、の2 つの条件です。これが福島県内における、現実的でコストのかからない放射線防護対策が話し合われることを、ほとんど妨げてきました。
しかし①の条件は、そもそも科学的に誤っており、今日内外の専門家はもう誰もこのようなことを言わなくなっています。そして②の条件は、2013 年のWHO の健康リスクアセスメントの推計の基礎となった2012 年のWHO の線量推計値では、原発の20 km 圏外の住民においても甲状腺等価線量は100 mSv を超えています。そして今回の分析では、WHO の健康リスクアセスメントの15 年甲状腺がんリスクを大きく上回ると思われる結果が示されました。
しかし、まだ原発事故から4 年半しか経っていないのです。放射線による甲状腺がんの発生に関する平均潜伏期間やチェルノブイリでの甲状腺がんの過剰発生の年次推移のデータを見ても、これから甲状腺がんは、これまでの10-20 倍規模で毎年発生する可能性が大きいのです。このような状況の中で、これまでの行政の説明を早く修正しないと、さらに行政への信頼は失われ、その結果、現実への対応や対策に支障を来しかねません。私どもの研究が、今後のことを考えて、行政のアナウンスや対策立案を見直すきっかけになるのではないかと考えています。このままでは、ますます不安や不信、風評被害を増幅するだけになると思います。

THE 放射能 科学は放射線の影響にどこまで迫れるのか?2016/03/14

報道ステーション 甲状腺がんと原発事故 2016/03/11

https://youtu.be/3P1WW795vY8

2016/02/04 【イントロ】岩上安身による津田敏秀・岡山大大学院教授インタビュー

第4回市民科学者国際会議:津田敏秀

20130526 UPLAN 津田敏秀「疫学的視点からみた100mSv安全論」

原発ゼロの中身は何?おもてなしってなに?

IMG_1336

<原発ゼロの中身は何?それが一番大事>
脱原発の次のエネルギーは地下を掘り返さない再生可能エネルギーであってほしいと思う。今盛んに次世代エネルギーと言われているシェールガスもメタンハイドレート、地熱発電も地球を掘り返さねば得られない。地熱は当然温泉地域で有力だし、メタンハイドレートが多く存在する場所には、ズワイガニがたくさんいるそうだ。どちらにしてもウラン採掘と同じく自然の豊かな地域がその場所となり都会の電力の為に地方の自然が利用されるのだ。採掘にはウラン公害のように様々な弊害がつきまとう。兵庫県も新しいエネルギー開発に向けて動いているけれど、金になれば少しの公害や自然破壊には目をつむるのだろう。何と言っても兵庫の日本海側は貧しいものこういう貧しさが危うい開発に向かわせる。

<おもてなしってなに?>
夏になると都会から親戚が家族総出で海水浴に来た。働いていた母は夏中勤めもしながら親類の「おもてなし」でくたくただった。旅館じゃないんだよね。。と子供ながらに思った。海や山,温泉の有る地域だから「おもてなし」は気がついたときから身近に有った。近頃は国中が「おもてなし」に湧いていて、歴史遺産、文化遺産、自然遺産に認定されると即観光客誘致がはじまり、国中でおもてなしが始まる。そんな時わたしはいつも疲れ果てた母の姿を思い出す。夏中おもてなしに走り回り、ゆっくり夏や海を楽しむ事も出来ないで夏が終わる。それが今では国中が、いや、世界中がおもてなしで湧いている。

そこに暮らす人々の本質的な豊かさとは何なのか、何が一番大事な事なのか。華やかな地域経済のオブラートに包まれてすっかり忘れ去られているように思える。

ちいさな地域も大きな地域も自然豊かな土地も経済の活発な地域もそれぞれ自分の足で立ち、潤い、誇りを持ち暮らせる故郷に何時になったらなるのだろう。

<再生可能エネルギーとは>
太陽・地球物理学的・生物学的な源に由来し、自然界によって利用する以上の速度で補充されるエネルギー
<枯渇性エネルギーとは>
化石燃料(石炭、石油、天然ガス、オイルサンド、シェールガス、メタンハイドレート等)やウラン等の地下資源を利用するもの(原子力発電等)を指す。

とにかく危険をみとめることだ

今ある原発を消せる訳でもない。

漏れ出てしまった放射能を無かったことにも出来ない。

その為に覆い被さるように人々の上に起こる苦難は

すぐには取り去ることは出来ない。

物理的な困難はその何倍ものも時間やエネルギーを必要とするだろうが

苦しみを背負った人自身が前向きに生きる気持ちが持てたなら

驚く様な早さで復興は進むと思う。

実際私たちは何度もその事実を見てきたはずだ。

それに必要なことは、原発から脱却することを国が決めることと

既に世界にあるものを永きにわたり安全に保存する為

その技術の進歩と公平な立場で進むべき道を検証する為にも

小出裕章氏のような研究者が相応な地位につくことと

あとを引き継いでゆく若い研究者や、保全の為の技術者が

たくさん育って行く様な、誇りを持って携われる様な

環境と研究機関、教育機関を設立してほしい。

それにはまず危険を認めることだ。

今の技術では人々を完全に守れないと認めることだ。

過ちを認めることだ。

jibanryuki

 

 

NEXT MEGAQUAKE 1 3.11巨大地震~明らかになる地殻変動 2013.03.10

NEXT MEGAQUAKE 2 大変動期 最悪のシナリオに備えろ 2013.3.10

3.11 あの日から2年  メルトダウン  原子炉”冷却”の死角 

何が書かれなかったのか ~政府原発事故調査~

祈る

IMG_4189

今年もまた そのときがきて いのる

一瞬にしてきえてしまった 多くのいのちに祈る

けがされた大地に祈る 行き場の無い かなしみに いのる

そこで生きる人々は なんとしても 救われなければいけない

自然のあるべきすがたを 取り戻さなければいけない

もうこれ以上 原発を作ってはいけない

放射能は 人間の手に負えない

原子力の平和利用への疑問

IMG_4077

 

誰もが 自分は正しいと思っている。

 

ラッセル=アインシュタイン宣言を固定ページに載せているけれど、、。

アイゼンハワー大統領の国連総会での演説、Atoms for Peace も科学者たちのラッセル=アインシュタイン宣言も、何処かむなしい物に聞こえてくる。平和利用という名の下に公然と核を保有し、無垢な場所を再び核の脅威へと導いて行こうとする。 利権をむさぼるものたちが、国々のてっぺんでうごめいている。どう考えても生物にも地球にも不利益なものを、なぜに止められないのだろう。

歴史を何度も振り返る、何処で何が間違ったのか、声なき声でも叫び続けなくてはと思う。。

【1953年】
1月 (米)アイゼンハワー大統領就任、「巻き返し政策」発表
3月 (ソ連)スターリン死去
8月 (ソ連)水爆保有宣言

【1954年】
3月 (米)ビキニ水爆実験
5月 (日)原水爆禁止の署名運動が始まる
12月 (日)署名が2000万人を越える

【1955年】
4月 アジア・アフリカ会議(バンドン会議):平和十原則の採択
7月 ラッセル・アインシュタイン宣言
8月 第1回原水爆禁止世界大会(広島)

【1956年】
2月 (ソ連)フルシチョフ書記長のスターリン批判

【1957年】
5月 (英)クリスマス島水爆実験
7月 第1回パグウォッシュ会議

年表資料:http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/index.html

読んでおきたい記事

原子力の平和利用は、そもそも可能であったか?-アイゼンハワーの国連総会に於ける演説、Atoms for Peace 再考

hereafter

身代わり猿。

いそいで作って、それからずっと側に置いてもらってた。

中国では猿は悪魔退散のお守りとして

三蔵法師も馬の鞍に付けて旅をしていたそうな。

4月の終わりに一緒に旅に出た。

「hereafter」 ここんところ なんども見る。また、多分見る。

この映画は、日本では2011年2月19日から公開されていたけれど

2011年3月11日の震災後 同日より中止となったそうだ

リアルな津波の映像が有る。

また5次元の時空の事を 魂の行き先とその有り様を考えていた。

目に見えないだけで すべて此処にあるような気がする

6月に考えた事

大飯原発が再稼働となる。

わざわざリスクの多い方向へ向かう

原発は麻薬みたいだと思っていたら

小出さんも同じことを言っていた。

原発推進派は麻薬の売人で

補助金で生計を立てる自治体は麻薬患者のようだ。

その事を皆知っているから

「そのことはあの人に聞いてくださいな」

いつだって貧しい者が損をする

政治は貧しい民を救わない

「わたしはどうだ?」

いつだってそういう気持ちで

ひとりひとりが自分に問いかけなくては

ほかの誰でもない

ここにいるのはわたし

いそがない

 

 

 

すこしだけ日差しが暖かくなった頃に。

ブラインドをすこし開けたら、ヤモリがのそのそとはい出して来た。

ヤモリは家の守り神だというからね、そっとしておく。

国は原発の再稼働を急いでいるみたいだ。

 

4月末予定の泊原発が止まれば

”事実上 日本の原発が全て止まる”

そのことを恐れているんだろうか。

恐れるべきことが,違う。

 

ところで、今朝は霜が降りていてとても寒い。

 

農業を守る国

couvercle_tete_de_moine1-32239516

歴史あるチーズ、テット・ド・モワン – swissinfo.

この変わった形のチーズ削りは「ジロル」(Girolle)というそうだ。

写真には写ってないけれど、乾燥防止のケースを取って、棒に歯を取り付けてまわすと

薄く削り取られたチーズが花びらのようにまとまる。牡丹、、カーネーションかな。

スイスから帰ってからこんな事をして食べてた。きれいでしょ。

20070318_304529

スイスに行った時、MIGROSというスーパーマーケットでチーズとともに買って帰った。

フランス語圏に住むスイス人の友人が英語で(ドイツ語圏も側なので彼女は3カ国語を話すんだ)

「あなたのご主人の頭」と身振り手振りもしながら英語さえよくわからない私に教えてくれた。

まあ、言葉ってどうにかなると思う。わたしもスイスに住めばバイリンガルになれるかもしれない。

続きを読む 農業を守る国