演劇と文化芸術と私と公民館

ブログの整理をしていたら、去年の2月、人類初めてのコロナ禍の襲来に世の中が右往左往し始める頃に書いてそのままになっていた江原河畔劇場設立プロジェクトの記事を見つけた。この頃はFacebookやTwitterで記事をシェアて応援していた。最近すこし遠のいたのは、コロナ禍のせいかもしれない。

ついこの前の豊岡市長選で演劇の街を進めていた中貝市長が落選し、「演劇なんていらない」をスローガンに掲げた新しい関貫市長が誕生した。正直言うと、新しい市長の言いたいこともわからないでもなかった。それは、公開討論の中での発言のなかにも見られた。

>豊岡市長選へ2氏が公開討論 コロナ対策 演劇のまちづくり より

中貝氏>最後は市民のプライドだ。世界中から評価されれば、自分たちのまちに対する誇りが生まれる。——世界有数の演出家たちが日本、豊岡にやって来る。世界的に活躍する劇作家が移り住んだ、それにひかれて多くの人たちがやって来る。日本中から学生が来た大学ができた、それが豊岡が素晴らしいことだ、それが誇りにつながるんだと思う。

関貫氏>まちに対する誇り「うちのまちはこんな立派な人がいるんだぜ」ということが本当に良いことなのか。誇りっていうのは自分自身が持つものだ。それと先ほど農業者の誇りを言われたが、それは農業者の方のなりわいが、誇りを持たせている。演劇のまちをそこでやったって、「すごい人が来たなあ、すごいまちだなあ、僕は誇りに思う」ってことは僕は絶対に思わない、皆さんもそうだと思う。だからその誇りっていうのは、表現の仕方とその内容が違うってのをご理解いただければと思う。

この会話。まさに私も常にモヤモヤとした思いを感じるテーマだ。平田オリザさんの講演を何度か聞いて、演劇についての見方が変わった。でも大事なことは上に書かれたようなことではなかった。それはジオパークの講演会で鳥取環境大学の新名阿津子氏の講演を聞いたときに感じた疑問にも共通することだった(内容についてはまた記事に書こう)。


2020年2月14日

——芸術施設というのは無くなってみて初めてその寂しさがわかる。学校も同じ。当たり前のようにあるのだけれど、無くなるとなると皆大事にする。—— 平田オリザ

でもね、一旦無くなると、取り戻すのは容易じゃないし大事なことも忘れてしまう。

● 江原河畔劇場設立プロジェクト「平田オリザ ロングインタビュー Vol.2 Vol.1」

江原河畔劇場公式WEBサイト

●赤崎地区公民館(新温泉町)のこと

小学校区が廃校になり校区が二つに分けられ、その後保育所もなくなり、残った建物は地域の避難所兼公民館としてかろうじて存続している。活動の中心となっているのは持ち回り任命の公民館長で、それもなりて不足で一旦受けたら次に回せず、引き受けてもう5年にもなる。文化祭も2度開催して、運動場の横に小さな公園もできたけれど、ちっとも人が集まらない。「無くなって寂しい」という声も、今ではすっかり聞こえなくなった。ただでさへ少ない子供たちの校区がバラバラになってしまっては、4集落の活動もまとまりようがない。それならばと小さな地域にとどまらず、町内共有の「場」として使えないかと模索していろいろ提案もしてみたが。。。ほとんど反応がない。もう力尽きたゎ。へき地保育所の可愛い建物の時計は、今も寂しそうに時を刻んでいる。

赤崎地区公民館のHP

●染織を活かしたい

2004年(平成16年)3月赤崎小学校が廃校になってすぐ、古い校舎で染織活動をさせてもらえないかと町へ相談を持ちかけた。きっかけは、その頃農家の蔵に眠っている古い織り道具を探していた私に「小学校に寄付した織り機があるから、壊される前に譲ってもらいなさい」と隣村のおばあさんに教えてもらったことだった。

新温泉町の温泉地区、浜坂地区とも小規模ながら、昔から農家の副業として養蚕や麻の栽培が行われていた。農家の蔵には織り機や糸車が有った。豊岡の柳行李の麻糸には照来の大麻が品質が良く重宝されたこと。麻実(おのみ)用に栽培した大麻を湯村の荒湯や河原でで茹で、農作業や行事に欠かせない麻縄やおがらを作ったこと。養蚕用の桑畑がたくさんあり、戦時中は集めた枝を小学校に集め親子総出で皮むき作業をして、繊維用に軍に供出したこと。野生の苧麻のヤマオを採取したこと。子供は『機ごしらえ』の戦力で、夜なべで織り機に経糸をかける作業が辛かったこと。着物を裂いて農作業用の半幅帯を織ったことなど、お年寄りからいろんな話を聞いた。この土地で今やもう忘れ去られそうな「染め紡ぎ織り」の手仕事を伝える場所を作りたいと思った。

苧麻・大麻の繊維
裂織りの半幅帯

    

その頃、各地で廃校の建物を利用して芸術文化の拠点とする動きがそろそろ出始めていた。町の担当課に連絡をして、建物の中の様子を見学した。一階は時折バンドの練習に使われていた。二階の理科室は水道設備もあり染色にも適していた。染織工房の内容や地域の人への染織教室の計画などの概要を口頭で説明し、寄付された織り機の所在も含めて、何かしらの答えを待っていた。必要とあれば書面にて計画書を提出する準備もできていた。町からの返答は、地域住民であっても個人には時間貸し以外は貸せない。織り機の所在はわからない。という簡単な返事だった。もう少し計画について話を聞いて欲しかったが、託されたおばあさんの織り機の所在も分からないままで、それ以上聞かれても答えられないといった風だった。そうこうしているうち小学校の校舎は取り壊された。

このことがとても残念で、しばらく町には関わらないことにした。時が経ち2015年に公民館長を託されたとき、「そろそろ地域の役に立つことを、、」と思うも、公民館長は広い分野で動かなくてはならない。人を集めたり中心になって動くことは得意ではなく、とても悩んだけれど、もしかしたら10年前に考えていたことを、その一部として実現できるかもしれないとひそかに考えていた。

染織の仕事はこつこつと孤独な作業だけれど、黙々とした一人仕事は性格に向いていた。震災後に故郷に帰ることを決めた時も「仕事は自分で作る」と決め、京都の染屋さんの伝手を頼りに、受注生産で麻の暖簾作りを始めた。仕事を始めたのは旧赤崎校区の和田地域の空き家。これが染織工房「染屋織屋」の始まりだった。たまたま、帰郷して2年目に赤崎校区のお寺に嫁いだことで、「染屋織屋(のちそめやおりや)」の活動が、赤崎地区公民館の活動に活かせるかもしれないと喜んだ。今振り返ると、京都での紆余曲折した染織の学び、故郷での制作活動から始まった染織への探究は流れるように自然とこの場所にたどり着いたことが何よりもうれしかった。

● 公民館のしごと

ただ、実のところ今の公民館の仕事はほとんど誰も重要なことだとは思っていないのではないかと感じた。のっけから「ほどほどに、適当に、頑張り過ぎないように」と言われていたし、公民館だよりも読んでいる人はほんのわずかに思われた。役のなり手がないから誰でもよかったのかもしれない。しかし受けたからにはほどほどで済ませられる性格ではなく、「はい、やらせてもらいます」と言いながら、いろいろ大変になるだろうけど覚悟しときなさいと、自分に言い聞かせた。なぜ言い聞かせたのかというと、15歳もゆうに過ぎた4匹の猫たちのことが脳裏に浮かんだから。心配した通り、公民館長になって最初の秋、人生の友とも言えるシャム猫のこげが一番先に亡くなった。生き絶えて床に落ちた時、尋常ではない大きな音が聞こえたのに、徹夜に引き続き藍染指導の後、帰るなり疲れ果てて起き上がれず、数時間冷たい床に放置してしまった。初めての文化祭の準備のことや揉め事で、いっぱいいっぱいの頃だった。一年たってもその名前を口に出せず、二年目には他の猫も次々に逝ってしまった。

3年も過ぎたころには色々慣れてきて、毎年繰り返される同じ行事の報告と、同様に同年ほぼ内容の変わらない「公民館だより」の記事は、雛形をなぞるように簡単にできるようになり、ちゃっちゃと進んでいく。けれど、このような状態で続けるわけにはいかないと毎回感じていた。

5年経った今も相変わらず公民館は閑散としている。立地も集落からは離れており、日常で使うには不便だ。校区をまとめる地区公民館は赤崎においてはもう存在意味が無いのだろうか。お年寄り中心の集落ごとの活動は便利な村の集会所で行い、わざわざ不便な場所に出向く必要もない。反面、若い世代は校区が統合されて、地域とのつながりが重要ではなくなり、子供と村のつながりが希薄になってしまった。若い親たちも交流範囲は広がっていて、祭事以外では集落ごとに集まる必要もなく、ましてや無くなってしまった「校区」の「赤崎地区公民館」にどんな存在意味があるのだろう。町の合併や学校の統廃合が行われて、町の枠組みは変化した。さらに人口の減少によって、小さな地域の伝統行事の担い手不足も生じている。伴い公民館の枠組みやあり方も変えていくべき時だと思う。

● 赤崎小学校と子供達との思い出

廃校になる前の赤崎小学校の小学生たちはよくお寺に遊びに来ていた。複式学級だったので大きい子が小さい子の面倒を見ながら登下校をしていた。学校から帰るとお寺の庭でバトミントンをしたりその頃いた犬の散歩をしてくれたり、庭は苔が育つ暇もなくツルツルだった。

春には桜の下でままごとをしてあそび、夏には写生をしたり蝉取りをしたり、秋は色づいた落ち葉を集め、冬は本堂の屋根から落ちた雪の山で日が暮れるまで遊び呆けていた。学校には森の中に先生と保護者と子供が力を合わせて作った「わんぱくの森」があり、大人も子供も、みんなその場所が大好きだった。町の学校であれば夕方まで校庭で遊べるけれど、人里離れた山の学校では様々な山の動物がやってくるからそうはいかない。下校後にお寺で遊ぶ子供も多かった。「お寺はわんぱくの森みたいで大好き」と言ってくれて、ちょっと嬉しかった。

登下校の山道には様々な植物が見られ、子供ながらに自然のことをよく知っていた。川でも海でもよく遊び、生き物のこともよく知っていた。大人になった今も絶滅しそうな川の生物を育て川に戻している子もいるらしい。近年学校の先生までも、ニラと水仙を間違えて食べさせるといった、考えられないような事故が聞かれるが、それくらいの違いは子供でも知っていたし、町育ちの私は子供たちに教わることも多かった。

危ない場所もあり、子供が遊びに来ると安全には特に注意していた。出入り禁止の染物の仕事場を覗いては質問を浴びせて困らせた。私が忙しく放っておくと遊びのネタも尽き、「おばちゃんなんかやることない?」とせがむので、クレヨンと画用紙を用意したり、栽培した綿の種取りのやり方を綿繰り機を使って教えたりした。子供の希望で自由研究で藍染の体験を指導した時は「授業での発表を聞きに来てください」と、手作りの招待状をもらい、一人だけの招待に、もじもじしながら初めて授業を参観した。それが最初で最後の赤崎小学校との関わりだった。思えばこの頃が「私の公民館活動」の始まりだった。

本堂の階段でお絵描きする子供達
小学校グループ研究の藍染講習
綿くり機

  

廃校になり、遊びに来る子供の数も徐々に減っていった。子供は外で遊ばなくなり、庭の苔は踏まれることもなくモコモコと緑の絨毯を敷き詰めている。今遊びに来るのは猪と鹿だけだ。

赤崎地区公民館の建物は今、ほとんど遊んでいるけれど自由には使えない。町の持ち物で、災害時の避難所であり選挙の投票所となる公共の場所だからだ。ただ、常に空っぽな状態ではもったいない。教育の現場では複式学級の良さなども語られているので、赤崎小学校の歴史を振り返ることはより良い未来の教育を考えることにもなるのではないだろうか。老朽化は進んでいるが、ステージもある体育館と、公園と運動場を持つ静かな山の中の公民館を、町内・町外にも開かれた「文化の交流の場」にする方法を探し続けている。

●これからのこと・たいせつなこと

兵庫県立の国際観光芸術専門職大学プレカレッジでの平田オリザさんの講演、城崎国際アートセンター、平田オリザさんの劇団を引き連れての豊岡移住、江原河畔劇場設立プロジェクトなどに、たくさんの刺激を受けている。演劇については、京都時代には周りに演劇関係者がたくさんいたはずなのに積極的に観に行った記憶がない。一度だけ小さな劇団の舞台衣装のための布の染めを受けた記憶がある。が、それも一度きりで終わった。先ずは想田和弘監督のドキュメンタリー『演劇1・2』を鑑賞した。未知の世界に一歩踏み込んだ感じだ。

北海道新聞に掲載された「憲法と文化政策」という講演の記事の中で平田オリザさんは ——自分達の文化や誇りに付加価値をつけていく「自己決定能力」こそが住みよい街づくり、よりよい人生をつくる要になる—— と述べられている。豊岡のコウノトリへの取り組みは、地域の人々が力を合わせ、長い時間をかけて困難と向き合いながら地道に切り開いた優れたお手本だ。揺るぎない理念のもとで誇りと付加価値を手に入れた。そして、周辺に様々な分野の人が集まり、コトが始まり、モノが集まりつつある。ここで大事なことは、周辺の町村は、少なからず受ける波及効果だけに飛びつかず、何がそれを作り出したのか、何が大切なのかを見逃してはいけないということだ。

日本中が観光とインバウンドで沸いている。ジオパークや世界遺産で有名になったりすることで、観光客が増えたり、外国人に人気だったりするコトが良いことのように言われることに、私は少し違和感を感じている。観光地にはアニメが溢れ、嗜好性の分かれる現代アートが公共の場にシュールに乱立している。

色々なものがあってもいい。全て否定しているわけではないけれど、どこへ行ってもあまりにも同じようなものばかりで、以前の『ハコモノ行政』再来ではないかと思わせる事例も少なくない。

でも本当にこれでいいのだろうか。お金は大事。でもお金は目標じゃない。ジオパークに認定されようが、世界遺産になろうが、人に認められようが、有名になろうがなるまいが、それよりずっと前から、「私の大好きと誇らしさは、ここにある」そういうものを大事にしたい。

田井からひとさか峠を越える

突然「ピュー」と大きな声がきこえた。窓を開けて向かいの山の斜面に目をこらすと、大きな雌鹿がこちらを向いてもう一度鳴いた。「ハーイ、どうした?おおきいなぁ」と声をかけると、白い大きなハートのお尻をこちらに向けて山の上方にゆっくり飛び跳ねていった。

雌鹿の居た斜面

昨年義母も実母も他界した。残された父は、少しの手助けだけで今はなんとか自立して暮らしている。今ようやく、5年の間に集まった資料や本の山を片付けて、足の踏み場もなかった小さな織の部屋を片付け始めた。すっかり止まってしまった染織に向かうべき時だ。


さて、一周忌もコロナ禍で簡単に済ませた三回忌も簡単に済ませることになる。

以命亭 立脇泰山 展〜6月8日まで

公民館だよりにも載せたのですが、ここにも書いておこう。

立脇泰山(1886~1970)新温泉町細田出身。

2016年5月20日立脇泰山展を見に - 1 / 18 2016年5月20日立脇泰山展を見に - 3 / 18

町内の住民のから約一〇〇点の寄贈を受けたうちの二七点を展示している。

入り口でまず目を引く「踊り鯛(たい)図」はシャレですか?と言いそうになる。鯛の大胆な構図が目を引くのだが、私としてはやはり自然の風景を静かに描いた作品に惹かれる。生き生きとした鮎、炭焼きの素朴な風景、ハッとする青い富嶽などなど。ぜひ以命亭ホールに足を運んで、それぞれの『私の好きな泰山』を見つけてください

IMG_2011  渓間昇鮎 渓間昇鮎1

町のホームページにも紹介されている『渓間昇鮎』の鮎がみずみずしくて思わず覗き込む。

エラの後ろにほんの少しさした淡黄色、ヒレはほんのり赤みを帯びて、胡粉で描かれた腹の白がみずみずしい鮎。水面にさした紺青とエラの淡黄色が相まって、鮎独特の「緑色の香り」のようなものを感じさせる。(鮎はキュウリウオ科の魚)

日本画は多くは表装されて軸に収まっているのだけれど、時々その表装を外してしまいたい衝動にかられる。描く画家の生の気持ちに近づきたいとの気持ちがそう思わせる。逆に考えれば、表装された絵は画家と持ち主との合作だとも言えるのかも。そんなことを考えながら軸の景色を眺めるのもいいかな。

榎並さんの個展の事など

ギャラリーHP   http://www.k2gshima.com/access/index.html

榎並和春さんのHP http://enami.sakura.ne.jp/

お近くのかたはぜひぜひ。

私は行事後の体調が回復していたら伺おう。

もうじき行事があるので開かずの押し入れを片付けている。

6年くらいは中を見てない気がする。。。

こうやって、毎回行事ごとにどこか大かたづけをしているのに,

ちっとも片付かないのはなんでだろ。。

 

おっと、道行きの提灯が出てきた。

昔はこれもって,かごに乗ってお参りに行ったそうです。

(もう一つのお寺には本堂の廊下上方に駕篭が吊ってある。)

いつか修理しようと、大事に箱に入れておく。

それにしても、ウチに有る物は茶色ばかりだ。

良い色だな。

今日はとても寒く

朝。急に大粒の雨が降る。
ほぼ一日、坂の植え込みの掃除をする。
夜12時半、急に風が出てまた大粒の雨が降る。
明日の朝の予想気温(豊岡)は11℃だそうで
いきなり初冬のようだ。

ー27日ー
京都に行く。予定通りまずは岡崎の近代美術館に。
「羅」「経錦」などの、複雑な組織織をたくさん見て回る。
組織織は全くの素人で、どれほど目をこらしてもからくりが解読できない。
とにかくその細やかさに舌を巻く。でも、きっといつか。。。ね。

見終わって、さあ、せっかく向かいにゴッホやフェルメールが来ているのだから、
ついでに、、などと考えながら建物を出て向かいを見る
「ついで」なんてとんでもない事に気がつく。バス停まで続く行列。
バス停も行列。あっさりあきらめる。

さて次は、四条烏丸にまでバスで行き、そこから歩いて三条の博物館に向かう。
烏丸を六角通で東に入ると六角堂の大きな柳がゆったりと風になびいていた。
走り寄り、枝垂れる葉を、手に受けてみる。シャラシャラ。。
ギッター・コレクションでは、思いがけず、白隠慧鶴の書画も多く見ることができた。
それと、無名の絵師が書いた、熊野曼荼羅。たたんで持ち運び、布教に使ったと思われる。
くっきりと残る折り皺に、いにしえの人々の気配を感じ、ドキドキする。

ギッター財団のHP萬葉庵では
所蔵品の高解像度の画像を見ることができる。
萬葉庵 the Manyo’an Collection » Works by artist: HAKUIN Ekaku 白隠慧鶴.

日本の美術館、博物館,寺院なども、収蔵品の高解像度の画像などを、
もっと一般に公開して頂きたいものです。

一つやり残したことが有り、近いうちもう一度京都へ。

高麗美術館: 2011年 特別企画展Ⅱ 女性たちの糸と針の造形「刺繍ポジャギとチョガッポ展」9月3日(土)~11月6日(日).

さて、そろそろ京都に行こか。

ちょいと用事も。。それから、秋ですし。

ニューオーリンズ ギッター・コレクションの江戸絵画
2011年9月3日(土)-10月16日(日)

眼科医・ギッター博士と妻イエレン女史は、40年近い年月をかけて優れた日本美術を収集してきました。日本美術の「純粋で、シンプルで、素朴な」美しさ、とりわけ墨線の持つ多様な表現に魅せられたギッター氏は、禅画コレクションを中核に据え、次に文人画、円山四条派、琳派、浮世絵、奇想の画家たち、近代美術へとコレクションを広げました。現在では与謝蕪村や池大雅のほか、伊藤若冲、俵屋宗達、酒井抱一など、江戸時代を中心とした日本美術の一大コレクションとなっています。

コレクションは抽象性と水墨表現を好むギッター氏の視点で集められていますが、同時に江戸絵画の二つの傾向を示しています。一つは若冲などの超越した画力、琳派の斬新なデザイン、禅画にみられるユーモアあふれる豊かなイマジネーション。いま一つは山水、花鳥、浮世絵における自然や日常へのあたたかな眼差しとリアリティの表現です。

引用元: 特別展示室 | 京都府京都文化博物館.

 

「織」を極める 人間国宝 北村武資
平成23年9月16日(金)~10月30日(日)

北村武資は、1935年京都に生まれ、中学校を卒業後、京都西陣で製織業に入ります。その後、五年間勤めた機屋を退職し、以後西陣を回りながら技術の習得に励みます。1959年大阪髙島屋で開催された初代龍村平蔵展を見て感銘を受け、同日龍村美術織物株式会社に入社、その後、独り立ちへの歩みをはじめました。1963年には京都の友禅作家森口華弘の主宰する染織研究会に参加するようになり、1965年伝統工芸日本染織展に初出品し、日本工芸会会長賞を受賞。また同年日本伝統工芸展に初出品、初入選を果たし頭角を表しました。

1972年に開催された長沙馬王堆漢墓(ちょうさまおうたいかんぼ)写真速報展で、中国で発掘された古代織の「羅(ら)」の写真を見て強い興味をいだき、以後非常に繊細な織による「羅」に挑戦し数々の優品を日本伝統工芸展に出品しました。

また平金糸によって透けて輝く「羅金」、「羅」と同じ紋織りで密度の高いしっかりとした「経錦(たてにしき)」など、古代織を再現しました。1995年には「羅」が、2000年には「経錦」が重要無形文化財に指定され、北村武資は二つの技の保持者として現在も活躍しています。

今年制作60年を迎える北村武資は、古代織の再現に留まらず、現代に生きる織として新しい世界に挑戦を続けています。織は極めて時間のかかる作業ですが、その厳しい制作態度は織の美をめざす織人の足跡でもあります。本展は、新しい世界に挑戦し続ける北村武資の制作を展観し、その多彩な織の芸術を紹介します。

引用元: 「織」を極める 人間国宝 北村武資 | 京都国立近代美術館.

 

京の小袖~デザインにみる日本のエレガンス~
2011年10月29日(土)-12月11日(日)

「小袖」とは、日本で近代以前に広く用いられていた衣服の形式の一つであり、現在の「きもの」のルーツです。桃山時代から江戸時代にかけて、小袖は、構成要素と基本的な形状をそのままに、絶えず意匠の変遷をつづけていました。それは、それぞれの時代の好みを反映させた最新の文様の小袖が次々と現れては、古いものにとって代わっていったからです。世の女性たちは、そのような最新流行の文様の小袖を競って手に入れ、季節や場面に応じて身にまとい、楽しんでいました。

本展では、京都の呉服の老舗である株式会社千總、丸紅株式会社、株式会社大丸松坂屋百貨店に伝世する品々を中心に小袖を展観し、常に同時代的な魅力にあふれていた小袖の美の世界を紹介します。

引用元: 特別展示室 | 京都府京都文化博物館.

 

布の風合

 

デジタル一眼レフカメラを買ってから一年以上もたってようやく使い方を学ぶ事にした。

恥ずかしくて書けないくらい、「え!、そうなんだ」ということが次から次と。。。

まったく、一年間何してたんだか。カメラに失礼だったなぁ。

ということで、ココでお勉強。

 

織上がる

img_1996

糸紡ぎの開始は2009年の6月だった。手紡ぎ糸の太さや撚りを決めるのも手探りで、いくつもサンプルを作ってみてた。それから、梅雨に紡ぎ汗をかきながら紡ぎ呼吸困難になりながら紡ぎ、皆既日食に紡ぎ、山苧の採取苧引の合間に紡ぎ、糸車の不調に弱りながら紡ぎ、染の準備に取りかかった時は11月になっていた。年が明けて2010年の一月にようやく小枠に糸を巻き取り整経の準備に掛かる。経に少し混ぜる、絹糸の扱いが上手く行かなくて泣く。整経の長さを間違えて本数が足りなくなり慌てて紡ぎ、それならいっそと、よせば良いのに経絣にする。悩みながら何度も染め直したこの糸が後々大変な苦労のもとになる。4月にようやく千切に巻いて機に上げることができた。ちょうど一年前になる。それからも綜絖、筬、織の問題が次々と起こるが、4月23日、やっと織り始めた。

途中何度も止めようかと思うほど糸切れがひどく、とにかく、一踏みするごとにどこかが切れる。それでも雨の日は少しは切れないで進んだようだ。順調ならば、緯絣でも一日50cmくらいは進むのに、ちょっと格子が入るだけなのに、(しかも経絣は無視して)一日かかって5cmも進まない日々が続く。うんざりしてもう止めてしまおうかと友人に電話を掛けて意見を聞くと、思いとどまるように勧められ、なんとか経糸を切らずに済んだ。糸は切らずに済んだけど、もう頭の中は切れそうだった。そして気分を変えようと結城行きを思い立つ。地機が何かを教えてくれる様な気がした。

年末でもあり、行事を控えていたので、帰ってからなかなか織りには向かえなかったのだけど、年が明けてようやく織はじめた。忘れないように思い出しながら地機を組み立て、少し織り、それから高機を仕上げようと毎日機に乗る。(乗ると言う言い方は結城で教わった)あれほど織りにくかったのになぜかすいすいと織れるようになっている、不思議。行き詰まったら にも書いたが、織の為の様々な初めての方法と、糸は切れるもの絡むものを前提とした結城紬の基礎を、つきっきりで教わったことが、そのまま高機にも役立ち機に向かう気持ちも整い、全ての悩みが解決した。

ようやく無事に、、、と言いたいところだが、、途中で緯糸が不足してしまう。試し織で予定していた色を変更したのが原因。用尺が、着尺に足りるかどうかの瀬戸際である。ただいま布は入浴中。(糊抜き)明日は晴天らしい。からりと乾いて、どんな風合いになるのか。。。まだまだほっこりもしていられない。

榎並和春 絵画展

2011 1月26日〜2月1日 阪急うめだ本店11階美術画廊にて(最終日は6時終了)

今年は大雪でどうにも動けそうにも無いです。
ちょっとそこまでって、展示会を見にゆけたら良いんですがね。

前回(前々回?)お会いしたとき、
「草の布が織れたら下地に使ってくださいますか?」
とお話ししたのに、まだその草の糸は天井からぶら下がったままです。
でも、草の布を持って行ける日も、そう遠くは無いでしょう。
この前、結城に向かう途中の分かれ道の岡谷JCT辺りで
甲府への道を横目で見ながらそんな事を思っていました。
(岡谷JCTから一時間半ほどで行ける事、調べは付いています)

大阪のお近くにお住まいの方は、ぜひ。

榎並和春さん個展のおしらせ


  ↑クリックでHPへ

  Blog あそびべのはる・ここだけの日々

春さんへ
 
またこの季節がやって来ましたね。春さんDMありがとうございます。
昨年の11月のDMの絵「野の花をつんで」がとてもすきです。
はかなげなのにどっしりとした存在感とか、
外向きの足下とか。。扁平足のようだとか。。

まるで鏡を見ている様な気もして来ます。
生身の等身大はなかなか見つめる勇気が出ませんが
これなら大丈夫かも。

また、大汗をかきかき伺います。

二階堂より

さて、さて、明日が最終日となりました。お近くの方はぜひ。
わたしは、早朝の長距離バスで行こうかなと思ったりしてましたが、
明日のお天気と気分次第かな。

 

珈琲茶碗


Blogで見かけた茶碗が気になって問い合わせた。
真ん中の写真の白い面取りのマグカップなのだけど、
なんせ去年の事だからもう完売していた。
代わりに今有る物を送っていただく。
土物だけど薄くひいてあり、軽く飲み口も心地よい。
益子の能登実登利 Noto Midoriさん作

いつか自分でも器を作りたいと思っている。

白い釉薬の、この持ち手の下の方の掛け残しとか
この、底の茶色い下地にさらっと掛かったところだとか
左と右に掛かった釉薬のへの字のあとだとか。

焦げ茶の下地が生成りを引き立て
生成りが焦げ茶を引き立て
それがいい。

器の底を三本の指で持って眺めてみる。