ブログの整理をしていたら、去年の2月、人類初めてのコロナ禍の襲来に世の中が右往左往し始める頃に書いてそのままになっていた江原河畔劇場設立プロジェクトの記事を見つけた。この頃はFacebookやTwitterで記事をシェアて応援していた。最近すこし遠のいたのは、コロナ禍のせいかもしれない。
ついこの前の豊岡市長選で演劇の街を進めていた中貝市長が落選し、「演劇なんていらない」をスローガンに掲げた新しい関貫市長が誕生した。正直言うと、新しい市長の言いたいこともわからないでもなかった。それは、公開討論の中での発言のなかにも見られた。
>豊岡市長選へ2氏が公開討論 コロナ対策 演劇のまちづくり より
中貝氏>最後は市民のプライドだ。世界中から評価されれば、自分たちのまちに対する誇りが生まれる。——世界有数の演出家たちが日本、豊岡にやって来る。世界的に活躍する劇作家が移り住んだ、それにひかれて多くの人たちがやって来る。日本中から学生が来た大学ができた、それが豊岡が素晴らしいことだ、それが誇りにつながるんだと思う。
関貫氏>まちに対する誇り「うちのまちはこんな立派な人がいるんだぜ」ということが本当に良いことなのか。誇りっていうのは自分自身が持つものだ。それと先ほど農業者の誇りを言われたが、それは農業者の方のなりわいが、誇りを持たせている。演劇のまちをそこでやったって、「すごい人が来たなあ、すごいまちだなあ、僕は誇りに思う」ってことは僕は絶対に思わない、皆さんもそうだと思う。だからその誇りっていうのは、表現の仕方とその内容が違うってのをご理解いただければと思う。
この会話。まさに私も常にモヤモヤとした思いを感じるテーマだ。平田オリザさんの講演を何度か聞いて、演劇についての見方が変わった。でも大事なことは上に書かれたようなことではなかった。それはジオパークの講演会で鳥取環境大学の新名阿津子氏の講演を聞いたときに感じた疑問にも共通することだった(内容についてはまた記事に書こう)。そんなことに関連することも書いていた。
<以下内容は2020年2月の当時の記事のまま>
此処から————————
——芸術施設というのは無くなってみて初めてその寂しさがわかる。学校も同じ。当たり前のようにあるのだけれど、無くなるとなると皆大事にする。—— 平田オリザ
でもね、一旦無くなると、取り戻すのは容易じゃないし大事なことも忘れてしまう。
● 江原河畔劇場設立プロジェクト「平田オリザ ロングインタビュー Vol.2 Vol.1」
●赤崎地区公民館(新温泉町)のこと
小学校区が廃校になり校区が二つに分けられ、その後保育所もなくなり、残った建物は地域の避難所兼公民館としてかろうじて存続している。活動の中心となっているのは持ち回り任命の公民館長で、それもなりて不足で一旦受けたら次に回せず、引き受けてもう5年にもなる。文化祭も2度開催して、運動場の横に小さな公園もできたけれど、ちっとも人が集まらない。「無くなって寂しい」という声も、今ではすっかり聞こえなくなった。ただでさへ少ない子供たちの校区がバラバラになってしまっては、4集落の活動もまとまりようがない。それならばと小さな地域にとどまらず、町内共有の「場」として使えないかと模索していろいろ提案もしてみたが。。。ほとんど反応がない。もう力尽きたゎ。へき地保育所の可愛い建物の時計は、今も寂しそうに時を刻んでいる。
●染織を活かしたい
2004年(平成16年)3月赤崎小学校が廃校になってすぐ、古い校舎で染織活動をさせてもらえないかと町へ相談を持ちかけた。きっかけは、その頃農家の蔵に眠っている古い織り道具を探していた私に「小学校に寄付した織り機があるから、壊される前に譲ってもらいなさい」と隣村のおばあさんに教えてもらったことだった。
新温泉町の温泉地区、浜坂地区とも小規模ながら、昔から農家の副業として養蚕や麻の栽培が行われていた。農家の蔵には織り機や糸車が有った。豊岡の柳行李の麻糸には照来の大麻が品質が良く重宝されたこと。麻実(おのみ)用に栽培した大麻を湯村の荒湯や河原でで茹で、農作業や行事に欠かせない麻縄やおがらを作ったこと。養蚕用の桑畑がたくさんあり、戦時中は集めた枝を小学校に集め親子総出で皮むき作業をして、繊維用に軍に供出したこと。野生の苧麻のヤマオを採取したこと。子供は『機ごしらえ』の戦力で、夜なべで織り機に経糸をかける作業が辛かったこと。着物を裂いて農作業用の半幅帯を織ったことなど、お年寄りからいろんな話を聞いた。この土地で今やもう忘れ去られそうな「染め紡ぎ織り」の手仕事を伝える場所を作りたいと思った。
その頃、各地で廃校の建物を利用して芸術文化の拠点とする動きがそろそろ出始めていた。町の担当課に連絡をして、建物の中の様子を見学した。一階は時折バンドの練習に使われていた。二階の理科室は水道設備もあり染色にも適していた。染織工房の内容や地域の人への染織教室の計画などの概要を口頭で説明し、寄付された織り機の所在も含めて、何かしらの答えを待っていた。必要とあれば書面にて計画書を提出する準備もできていた。町からの返答は、地域住民であっても個人には時間貸し以外は貸せない。織り機の所在はわからない。という簡単な返事だった。もう少し計画について話を聞いて欲しかったが、託されたおばあさんの織り機の所在も分からないままで、それ以上聞かれても答えられないといった風だった。そうこうしているうち小学校の校舎は取り壊された。
このことがとても残念で、しばらく町には関わらないことにした。時が経ち2015年に公民館長を託されたとき、「そろそろ地域の役に立つことを、、」と思うも、公民館長は広い分野で動かなくてはならない。人を集めたり中心になって動くことは得意ではなく、とても悩んだけれど、もしかしたら10年前に考えていたことを、その一部として実現できるかもしれないとひそかに考えていた。
染織の仕事はこつこつと孤独な作業だけれど、黙々とした一人仕事は性格に向いていた。震災後に故郷に帰ることを決めた時も「仕事は自分で作る」と決め、京都の染屋さんの伝手を頼りに、受注生産で麻の暖簾作りを始めた。仕事を始めたのは旧赤崎校区の和田地域の空き家。これが染織工房「染屋織屋」の始まりだった。たまたま、帰郷して2年目に赤崎校区のお寺に嫁いだことで、「染屋織屋(のちそめやおりや)」の活動が、赤崎地区公民館の活動に活かせるかもしれないと喜んだ。今振り返ると、京都での紆余曲折した染織の学び、故郷での制作活動から始まった染織への探究は流れるように自然とこの場所にたどり着いたことが何よりもうれしかった。
● 公民館のしごと
ただ、実のところ今の公民館の仕事はほとんど誰も重要なことだとは思っていないのではないかと感じた。のっけから「ほどほどに、適当に、頑張り過ぎないように」と言われていたし、公民館だよりも読んでいる人はほんのわずかに思われた。役のなり手がないから誰でもよかったのかもしれない。しかし受けたからにはほどほどで済ませられる性格ではなく、「はい、やらせてもらいます」と言いながら、いろいろ大変になるだろうけど覚悟しときなさいと、自分に言い聞かせた。なぜ言い聞かせたのかというと、15歳もゆうに過ぎた4匹の猫たちのことが脳裏に浮かんだから。心配した通り、公民館長になって最初の秋、人生の友とも言えるシャム猫のこげが一番先に亡くなった。生き絶えて床に落ちた時、尋常ではない大きな音が聞こえたのに、徹夜に引き続き藍染指導の後、帰るなり疲れ果てて起き上がれず、数時間冷たい床に放置してしまった。初めての文化祭の準備のことや揉め事で、いっぱいいっぱいの頃だった。一年たってもその名前を口に出せず、二年目には他の猫も次々に逝ってしまった。
3年も過ぎたころには色々慣れてきて、毎年繰り返される同じ行事の報告と、同様に同年ほぼ内容の変わらない「公民館だより」の記事は、雛形をなぞるように簡単にできるようになり、ちゃっちゃと進んでいく。けれど、このような状態で続けるわけにはいかないと毎回感じていた。
5年経った今も相変わらず公民館は閑散としている。立地も集落からは離れており、日常で使うには不便だ。校区をまとめる地区公民館は赤崎においてはもう存在意味が無いのだろうか。お年寄り中心の集落ごとの活動は便利な村の集会所で行い、わざわざ不便な場所に出向く必要もない。反面、若い世代は校区が統合されて、地域とのつながりが重要ではなくなり、子供と村のつながりが希薄になってしまった。若い親たちも交流範囲は広がっていて、祭事以外では集落ごとに集まる必要もなく、ましてや無くなってしまった「校区」の「赤崎地区公民館」にどんな存在意味があるのだろう。町の合併や学校の統廃合が行われて、町の枠組みは変化した。さらに人口の減少によって、小さな地域の伝統行事の担い手不足も生じている。伴い公民館の枠組みやあり方も変えていくべき時だと思う。
● 赤崎小学校と子供達との思い出
廃校になる前の赤崎小学校の小学生たちはよくお寺に遊びに来ていた。複式学級だったので大きい子が小さい子の面倒を見ながら登下校をしていた。学校から帰るとお寺の庭でバトミントンをしたりその頃いた犬の散歩をしてくれたり、庭は苔が育つ暇もなくツルツルだった。
春には桜の下でままごとをしてあそび、夏には写生をしたり蝉取りをしたり、秋は色づいた落ち葉を集め、冬は本堂の屋根から落ちた雪の山で日が暮れるまで遊び呆けていた。学校には森の中に先生と保護者と子供が力を合わせて作った「わんぱくの森」があり、大人も子供も、みんなその場所が大好きだった。町の学校であれば夕方まで校庭で遊べるけれど、人里離れた山の学校では様々な山の動物がやってくるからそうはいかない。下校後にお寺で遊ぶ子供も多かった。「お寺はわんぱくの森みたいで大好き」と言ってくれて、ちょっと嬉しかった。
登下校の山道には様々な植物が見られ、子供ながらに自然のことをよく知っていた。川でも海でもよく遊び、生き物のこともよく知っていた。大人になった今も絶滅しそうな川の生物を育て川に戻している子もいるらしい。近年学校の先生までも、ニラと水仙を間違えて食べさせるといった、考えられないような事故が聞かれるが、それくらいの違いは子供でも知っていたし、町育ちの私は子供たちに教わることも多かった。
危ない場所もあり、子供が遊びに来ると安全には特に注意していた。出入り禁止の染物の仕事場を覗いては質問を浴びせて困らせた。私が忙しく放っておくと遊びのネタも尽き、「おばちゃんなんかやることない?」とせがむので、クレヨンと画用紙を用意したり、栽培した綿の種取りのやり方を綿繰り機を使って教えたりした。子供の希望で自由研究で藍染の体験を指導した時は「授業での発表を聞きに来てください」と、手作りの招待状をもらい、一人だけの招待に、もじもじしながら初めて授業を参観した。それが最初で最後の赤崎小学校との関わりだった。思えばこの頃が「私の公民館活動」の始まりだった。
廃校になり、遊びに来る子供の数も徐々に減っていった。子供は外で遊ばなくなり、庭の苔は踏まれることもなくモコモコと緑の絨毯を敷き詰めている。今遊びに来るのは猪と鹿だけだ。
赤崎地区公民館の建物は今、ほとんど遊んでいるけれど自由には使えない。町の持ち物で、災害時の避難所であり選挙の投票所となる公共の場所だからだ。ただ、常に空っぽな状態ではもったいない。教育の現場では複式学級の良さなども語られているので、赤崎小学校の歴史を振り返ることはより良い未来の教育を考えることにもなるのではないだろうか。老朽化は進んでいるが、ステージもある体育館と、公園と運動場を持つ静かな山の中の公民館を、町内・町外にも開かれた「文化の交流の場」にする方法を探し続けている。
●これからのこと・たいせつなこと
兵庫県立の国際観光芸術専門職大学プレカレッジでの平田オリザさんの講演、城崎国際アートセンター、平田オリザさんの劇団を引き連れての豊岡移住、江原河畔劇場設立プロジェクトなどに、たくさんの刺激を受けている。演劇については、京都時代には周りに演劇関係者がたくさんいたはずなのに積極的に観に行った記憶がない。一度だけ小さな劇団の舞台衣装のための布の染めを受けた記憶がある。が、それも一度きりで終わった。先ずは想田和弘監督のドキュメンタリー『演劇1・2』を鑑賞した。未知の世界に一歩踏み込んだ感じだ。
北海道新聞に掲載された「憲法と文化政策」という講演の記事の中で平田オリザさんは ——自分達の文化や誇りに付加価値をつけていく「自己決定能力」こそが住みよい街づくり、よりよい人生をつくる要になる—— と述べられている。豊岡のコウノトリへの取り組みは、地域の人々が力を合わせ、長い時間をかけて困難と向き合いながら地道に切り開いた優れたお手本だ。揺るぎない理念のもとで誇りと付加価値を手に入れた。そして、周辺に様々な分野の人が集まり、コトが始まり、モノが集まりつつある。ここで大事なことは、周辺の町村は、少なからず受ける波及効果だけに飛びつかず、何がそれを作り出したのか、何が大切なのかを見逃してはいけないということだ。
日本中が観光とインバウンドで沸いている。ジオパークや世界遺産で有名になったりすることで、観光客が増えたり、外国人に人気だったりするコトが良いことのように言われることに、私は少し違和感を感じている。観光地にはアニメが溢れ、嗜好性の分かれる現代アートが公共の場にシュールに乱立している。
色々なものがあってもいい。全て否定しているわけではないけれど、どこへ行ってもあまりにも同じようなものばかりで、以前の『ハコモノ行政』再来ではないかと思わせる事例も少なくない。
でも本当にこれでいいのだろうか。お金は大事。でもお金は目標じゃない。ジオパークに認定されようが、世界遺産になろうが、人に認められようが、有名になろうがなるまいが、それよりずっと前から、「私の大好きと誇らしさは、ここにある」そういうものを大事にしたい。
突然「ピュー」と大きな声がきこえた。窓を開けて向かいの山の斜面に目をこらすと、大きな雌鹿がこちらを向いてもう一度鳴いた。「ハーイ、どうした?おおきいなぁ」と声をかけると、白い大きなハートのお尻をこちらに向けて山の上方にゆっくり飛び跳ねていった。
昨年2人の母も他界した。残された父は、少しの手助けだけで今はなんとか自立して暮らしている。今ようやく、5年の間に集まった資料や本の山を片付けて、足の踏み場もなかった小さな織の部屋を片付け始めた。すっかり止まってしまった染織に向かうべき時だ。
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さて、一周忌もコロナ禍で簡単に済ませた三回忌も簡単に済ませることになる。