演劇と文化芸術と私と公民館

ブログの整理をしていたら、去年の2月、人類初めてのコロナ禍の襲来に世の中が右往左往し始める頃に書いてそのままになっていた江原河畔劇場設立プロジェクトの記事を見つけた。この頃はFacebookやTwitterで記事をシェアて応援していた。最近すこし遠のいたのは、コロナ禍のせいかもしれない。

ついこの前の豊岡市長選で演劇の街を進めていた中貝市長が落選し、「演劇なんていらない」をスローガンに掲げた新しい関貫市長が誕生した。正直言うと、新しい市長の言いたいこともわからないでもなかった。それは、公開討論の中での発言のなかにも見られた。

>豊岡市長選へ2氏が公開討論 コロナ対策 演劇のまちづくり より

中貝氏>最後は市民のプライドだ。世界中から評価されれば、自分たちのまちに対する誇りが生まれる。——世界有数の演出家たちが日本、豊岡にやって来る。世界的に活躍する劇作家が移り住んだ、それにひかれて多くの人たちがやって来る。日本中から学生が来た大学ができた、それが豊岡が素晴らしいことだ、それが誇りにつながるんだと思う。

関貫氏>まちに対する誇り「うちのまちはこんな立派な人がいるんだぜ」ということが本当に良いことなのか。誇りっていうのは自分自身が持つものだ。それと先ほど農業者の誇りを言われたが、それは農業者の方のなりわいが、誇りを持たせている。演劇のまちをそこでやったって、「すごい人が来たなあ、すごいまちだなあ、僕は誇りに思う」ってことは僕は絶対に思わない、皆さんもそうだと思う。だからその誇りっていうのは、表現の仕方とその内容が違うってのをご理解いただければと思う。

この会話。まさに私も常にモヤモヤとした思いを感じるテーマだ。平田オリザさんの講演を何度か聞いて、演劇についての見方が変わった。でも大事なことは上に書かれたようなことではなかった。それはジオパークの講演会で鳥取環境大学の新名阿津子氏の講演を聞いたときに感じた疑問にも共通することだった(内容についてはまた記事に書こう)。


2020年2月14日

——芸術施設というのは無くなってみて初めてその寂しさがわかる。学校も同じ。当たり前のようにあるのだけれど、無くなるとなると皆大事にする。—— 平田オリザ

でもね、一旦無くなると、取り戻すのは容易じゃないし大事なことも忘れてしまう。

● 江原河畔劇場設立プロジェクト「平田オリザ ロングインタビュー Vol.2 Vol.1」

江原河畔劇場公式WEBサイト

●赤崎地区公民館(新温泉町)のこと

小学校区が廃校になり校区が二つに分けられ、その後保育所もなくなり、残った建物は地域の避難所兼公民館としてかろうじて存続している。活動の中心となっているのは持ち回り任命の公民館長で、それもなりて不足で一旦受けたら次に回せず、引き受けてもう5年にもなる。文化祭も2度開催して、運動場の横に小さな公園もできたけれど、ちっとも人が集まらない。「無くなって寂しい」という声も、今ではすっかり聞こえなくなった。ただでさへ少ない子供たちの校区がバラバラになってしまっては、4集落の活動もまとまりようがない。それならばと小さな地域にとどまらず、町内共有の「場」として使えないかと模索していろいろ提案もしてみたが。。。ほとんど反応がない。もう力尽きたゎ。へき地保育所の可愛い建物の時計は、今も寂しそうに時を刻んでいる。

赤崎地区公民館のHP

●染織を活かしたい

2004年(平成16年)3月赤崎小学校が廃校になってすぐ、古い校舎で染織活動をさせてもらえないかと町へ相談を持ちかけた。きっかけは、その頃農家の蔵に眠っている古い織り道具を探していた私に「小学校に寄付した織り機があるから、壊される前に譲ってもらいなさい」と隣村のおばあさんに教えてもらったことだった。

新温泉町の温泉地区、浜坂地区とも小規模ながら、昔から農家の副業として養蚕や麻の栽培が行われていた。農家の蔵には織り機や糸車が有った。豊岡の柳行李の麻糸には照来の大麻が品質が良く重宝されたこと。麻実(おのみ)用に栽培した大麻を湯村の荒湯や河原でで茹で、農作業や行事に欠かせない麻縄やおがらを作ったこと。養蚕用の桑畑がたくさんあり、戦時中は集めた枝を小学校に集め親子総出で皮むき作業をして、繊維用に軍に供出したこと。野生の苧麻のヤマオを採取したこと。子供は『機ごしらえ』の戦力で、夜なべで織り機に経糸をかける作業が辛かったこと。着物を裂いて農作業用の半幅帯を織ったことなど、お年寄りからいろんな話を聞いた。この土地で今やもう忘れ去られそうな「染め紡ぎ織り」の手仕事を伝える場所を作りたいと思った。

苧麻・大麻の繊維
裂織りの半幅帯

    

その頃、各地で廃校の建物を利用して芸術文化の拠点とする動きがそろそろ出始めていた。町の担当課に連絡をして、建物の中の様子を見学した。一階は時折バンドの練習に使われていた。二階の理科室は水道設備もあり染色にも適していた。染織工房の内容や地域の人への染織教室の計画などの概要を口頭で説明し、寄付された織り機の所在も含めて、何かしらの答えを待っていた。必要とあれば書面にて計画書を提出する準備もできていた。町からの返答は、地域住民であっても個人には時間貸し以外は貸せない。織り機の所在はわからない。という簡単な返事だった。もう少し計画について話を聞いて欲しかったが、託されたおばあさんの織り機の所在も分からないままで、それ以上聞かれても答えられないといった風だった。そうこうしているうち小学校の校舎は取り壊された。

このことがとても残念で、しばらく町には関わらないことにした。時が経ち2015年に公民館長を託されたとき、「そろそろ地域の役に立つことを、、」と思うも、公民館長は広い分野で動かなくてはならない。人を集めたり中心になって動くことは得意ではなく、とても悩んだけれど、もしかしたら10年前に考えていたことを、その一部として実現できるかもしれないとひそかに考えていた。

染織の仕事はこつこつと孤独な作業だけれど、黙々とした一人仕事は性格に向いていた。震災後に故郷に帰ることを決めた時も「仕事は自分で作る」と決め、京都の染屋さんの伝手を頼りに、受注生産で麻の暖簾作りを始めた。仕事を始めたのは旧赤崎校区の和田地域の空き家。これが染織工房「染屋織屋」の始まりだった。たまたま、帰郷して2年目に赤崎校区のお寺に嫁いだことで、「染屋織屋(のちそめやおりや)」の活動が、赤崎地区公民館の活動に活かせるかもしれないと喜んだ。今振り返ると、京都での紆余曲折した染織の学び、故郷での制作活動から始まった染織への探究は流れるように自然とこの場所にたどり着いたことが何よりもうれしかった。

● 公民館のしごと

ただ、実のところ今の公民館の仕事はほとんど誰も重要なことだとは思っていないのではないかと感じた。のっけから「ほどほどに、適当に、頑張り過ぎないように」と言われていたし、公民館だよりも読んでいる人はほんのわずかに思われた。役のなり手がないから誰でもよかったのかもしれない。しかし受けたからにはほどほどで済ませられる性格ではなく、「はい、やらせてもらいます」と言いながら、いろいろ大変になるだろうけど覚悟しときなさいと、自分に言い聞かせた。なぜ言い聞かせたのかというと、15歳もゆうに過ぎた4匹の猫たちのことが脳裏に浮かんだから。心配した通り、公民館長になって最初の秋、人生の友とも言えるシャム猫のこげが一番先に亡くなった。生き絶えて床に落ちた時、尋常ではない大きな音が聞こえたのに、徹夜に引き続き藍染指導の後、帰るなり疲れ果てて起き上がれず、数時間冷たい床に放置してしまった。初めての文化祭の準備のことや揉め事で、いっぱいいっぱいの頃だった。一年たってもその名前を口に出せず、二年目には他の猫も次々に逝ってしまった。

3年も過ぎたころには色々慣れてきて、毎年繰り返される同じ行事の報告と、同様に同年ほぼ内容の変わらない「公民館だより」の記事は、雛形をなぞるように簡単にできるようになり、ちゃっちゃと進んでいく。けれど、このような状態で続けるわけにはいかないと毎回感じていた。

5年経った今も相変わらず公民館は閑散としている。立地も集落からは離れており、日常で使うには不便だ。校区をまとめる地区公民館は赤崎においてはもう存在意味が無いのだろうか。お年寄り中心の集落ごとの活動は便利な村の集会所で行い、わざわざ不便な場所に出向く必要もない。反面、若い世代は校区が統合されて、地域とのつながりが重要ではなくなり、子供と村のつながりが希薄になってしまった。若い親たちも交流範囲は広がっていて、祭事以外では集落ごとに集まる必要もなく、ましてや無くなってしまった「校区」の「赤崎地区公民館」にどんな存在意味があるのだろう。町の合併や学校の統廃合が行われて、町の枠組みは変化した。さらに人口の減少によって、小さな地域の伝統行事の担い手不足も生じている。伴い公民館の枠組みやあり方も変えていくべき時だと思う。

● 赤崎小学校と子供達との思い出

廃校になる前の赤崎小学校の小学生たちはよくお寺に遊びに来ていた。複式学級だったので大きい子が小さい子の面倒を見ながら登下校をしていた。学校から帰るとお寺の庭でバトミントンをしたりその頃いた犬の散歩をしてくれたり、庭は苔が育つ暇もなくツルツルだった。

春には桜の下でままごとをしてあそび、夏には写生をしたり蝉取りをしたり、秋は色づいた落ち葉を集め、冬は本堂の屋根から落ちた雪の山で日が暮れるまで遊び呆けていた。学校には森の中に先生と保護者と子供が力を合わせて作った「わんぱくの森」があり、大人も子供も、みんなその場所が大好きだった。町の学校であれば夕方まで校庭で遊べるけれど、人里離れた山の学校では様々な山の動物がやってくるからそうはいかない。下校後にお寺で遊ぶ子供も多かった。「お寺はわんぱくの森みたいで大好き」と言ってくれて、ちょっと嬉しかった。

登下校の山道には様々な植物が見られ、子供ながらに自然のことをよく知っていた。川でも海でもよく遊び、生き物のこともよく知っていた。大人になった今も絶滅しそうな川の生物を育て川に戻している子もいるらしい。近年学校の先生までも、ニラと水仙を間違えて食べさせるといった、考えられないような事故が聞かれるが、それくらいの違いは子供でも知っていたし、町育ちの私は子供たちに教わることも多かった。

危ない場所もあり、子供が遊びに来ると安全には特に注意していた。出入り禁止の染物の仕事場を覗いては質問を浴びせて困らせた。私が忙しく放っておくと遊びのネタも尽き、「おばちゃんなんかやることない?」とせがむので、クレヨンと画用紙を用意したり、栽培した綿の種取りのやり方を綿繰り機を使って教えたりした。子供の希望で自由研究で藍染の体験を指導した時は「授業での発表を聞きに来てください」と、手作りの招待状をもらい、一人だけの招待に、もじもじしながら初めて授業を参観した。それが最初で最後の赤崎小学校との関わりだった。思えばこの頃が「私の公民館活動」の始まりだった。

本堂の階段でお絵描きする子供達
小学校グループ研究の藍染講習
綿くり機

  

廃校になり、遊びに来る子供の数も徐々に減っていった。子供は外で遊ばなくなり、庭の苔は踏まれることもなくモコモコと緑の絨毯を敷き詰めている。今遊びに来るのは猪と鹿だけだ。

赤崎地区公民館の建物は今、ほとんど遊んでいるけれど自由には使えない。町の持ち物で、災害時の避難所であり選挙の投票所となる公共の場所だからだ。ただ、常に空っぽな状態ではもったいない。教育の現場では複式学級の良さなども語られているので、赤崎小学校の歴史を振り返ることはより良い未来の教育を考えることにもなるのではないだろうか。老朽化は進んでいるが、ステージもある体育館と、公園と運動場を持つ静かな山の中の公民館を、町内・町外にも開かれた「文化の交流の場」にする方法を探し続けている。

●これからのこと・たいせつなこと

兵庫県立の国際観光芸術専門職大学プレカレッジでの平田オリザさんの講演、城崎国際アートセンター、平田オリザさんの劇団を引き連れての豊岡移住、江原河畔劇場設立プロジェクトなどに、たくさんの刺激を受けている。演劇については、京都時代には周りに演劇関係者がたくさんいたはずなのに積極的に観に行った記憶がない。一度だけ小さな劇団の舞台衣装のための布の染めを受けた記憶がある。が、それも一度きりで終わった。先ずは想田和弘監督のドキュメンタリー『演劇1・2』を鑑賞した。未知の世界に一歩踏み込んだ感じだ。

北海道新聞に掲載された「憲法と文化政策」という講演の記事の中で平田オリザさんは ——自分達の文化や誇りに付加価値をつけていく「自己決定能力」こそが住みよい街づくり、よりよい人生をつくる要になる—— と述べられている。豊岡のコウノトリへの取り組みは、地域の人々が力を合わせ、長い時間をかけて困難と向き合いながら地道に切り開いた優れたお手本だ。揺るぎない理念のもとで誇りと付加価値を手に入れた。そして、周辺に様々な分野の人が集まり、コトが始まり、モノが集まりつつある。ここで大事なことは、周辺の町村は、少なからず受ける波及効果だけに飛びつかず、何がそれを作り出したのか、何が大切なのかを見逃してはいけないということだ。

日本中が観光とインバウンドで沸いている。ジオパークや世界遺産で有名になったりすることで、観光客が増えたり、外国人に人気だったりするコトが良いことのように言われることに、私は少し違和感を感じている。観光地にはアニメが溢れ、嗜好性の分かれる現代アートが公共の場にシュールに乱立している。

色々なものがあってもいい。全て否定しているわけではないけれど、どこへ行ってもあまりにも同じようなものばかりで、以前の『ハコモノ行政』再来ではないかと思わせる事例も少なくない。

でも本当にこれでいいのだろうか。お金は大事。でもお金は目標じゃない。ジオパークに認定されようが、世界遺産になろうが、人に認められようが、有名になろうがなるまいが、それよりずっと前から、「私の大好きと誇らしさは、ここにある」そういうものを大事にしたい。

田井からひとさか峠を越える

突然「ピュー」と大きな声がきこえた。窓を開けて向かいの山の斜面に目をこらすと、大きな雌鹿がこちらを向いてもう一度鳴いた。「ハーイ、どうした?おおきいなぁ」と声をかけると、白い大きなハートのお尻をこちらに向けて山の上方にゆっくり飛び跳ねていった。

雌鹿の居た斜面

昨年義母も実母も他界した。残された父は、少しの手助けだけで今はなんとか自立して暮らしている。今ようやく、5年の間に集まった資料や本の山を片付けて、足の踏み場もなかった小さな織の部屋を片付け始めた。すっかり止まってしまった染織に向かうべき時だ。


さて、一周忌もコロナ禍で簡単に済ませた三回忌も簡単に済ませることになる。

北但馬の「糸」に関わるモノつくり

【豊岡杞柳細工】

■柳行李から鞄へ

神話の時代、新羅王子とされる天日槍命(アメノヒボコ)によって、柳(やなぎ)細工の技術が伝えられたとの伝承が、712年の「古事記」にあります。豊岡鞄のルーツは、その柳細工で作られたカゴだと言われています。

奈良時代に豊岡でつくられた「柳筥(やなぎかご)」は正倉院に上納されています。1473年の、「応仁記」には、豊岡市の九日市(ココノカイチ)に「九日市場」が開かれ、柳こおりが商品として盛んに売買されていた記述があります。おそらくこの時期から、地場産業として家内手工業的な杞柳産業が発展したことが予想されます。

1881年(明治14年)八木長衛門が第2回内国勧業博覧会に2尺3寸(約70cm)入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したことが始まりと伝えられています。この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われている。

1936年に開催されたベルリンオリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、この頃には、「ファイバー鞄」が、豊岡かばんの主流を占めるようになりました。しかし、昭和12年に日中戦争、昭和16年に太平洋戦争と戦火が拡大するにつれて材料の確保が困難になり、材料の購入・販売など統制しなくてはならなくなった。

昭和28年、従来のスーツケースの胴枠を改造し、外型崩れ防止にピアノ線を使用した鞄が生まれた。軽くて強靭であることなど、これまでの欠陥を補っていたので他商品を圧倒した。「岩戸景気」(1958~1961年)を背景に、豊岡市に300を越える鞄関連企業が生まれました。全国生産の80%のシェアを占めるまでに発展した。こうして、カバン産業が豊岡市の地場産業となったのです。

出典/豊岡鞄の歴史と技 Internet Archive
   城下町出石に残る伝統工芸【杞柳細工(柳行李)】

▶︎ 豊岡鞄公式サイト http://www.toyooka-kaban.jp/

■杞柳と大麻

昭和10年頃 豊岡を中心とした杞柳製の生産は全国第一位であった。原料となる杞柳は円山川両岸の河岸潟地並に氾濫原に産したものを主とし、完全に自給自足を行なっていた。しかし、円山川治水工事が進み原料柳の激減により、内地の各地方から仕入れ、また、安価なものは支那から輸入した。原料が自給出来なくなったにもかかわらず、この工業がさほど衰へたと思へないほど生産されるのは、まず杞柳工業の歴史が古く他で模倣することの出来ない製造上の技術が傳習されているからである。

行李の編絲の原料で有る大麻は、古来但馬の名産の一つであった。今日でも(昭和13年頃)低温高湿の気候をもった美方郡の小代村・照来村、城崎郡の三方村・山椒村などの山地の村々では僅かながら栽培されている。これらを合した但馬産の大麻は年々減少して行く傾向が有る。それでも大麻は兵庫県内では他に見られぬ産物である。行李の生命となるべき麻絲は皆但馬産を用いたものであるが、原料として高価な大麻はしだいに安価な輸入麻の亜麻(大正5年)やラミー(昭和に入って)に厭されてしまった。  但馬読本/135p http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1101585/135

豊岡で作られたと思われる母方の祖父のバスケットと 近隣の村の蔵に保管されていた大麻の繊維

 

【但馬の養蚕】

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▶︎参考資料/国会図書館デジタル資料 養蚕秘録
 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556952?tocOpened

■但馬の絹 養蚕秘録

生糸は但馬の誇るべき産物であったが、18世紀後半、奥州の養蚕技術が向上したため但馬地方の生糸の評価が下がり下級品とされた。大屋町蔵垣出身の上垣守国は、毎年のように奥州などに蚕種の仕入れに出掛け,自らも蚕種製造を行った。享和2(1802)年に著した『養蚕秘録』は最も代表的な江戸時代の養蚕書である。これは和漢の古典や農書類を引き,また各地の養蚕技術を紹介しつつ,養蚕に関する幅広い知見をはじめてまとめた点に特徴があり,のちの養蚕書に大きな影響を与えた。奥州種の蚕を改良して但馬種をつくりだし、但馬地方に広く伝えられ北近畿一円に広まったとされる。守国は寛政9年(1797)に豊岡の奥佐野で蚕種の販売を始め、「養蚕秘録」(上・中・下巻)を著す。のちに村の庄屋になり,学問の教授や養蚕技術の指導も行い,また蚕種業によって富を成した

こうした熱心な研究と伝習により年々質及び量も向上する。のちに豊岡市但東町に隣接する丹後の峰山から、ちりめんの技術が移入され、但馬たじまちりめんが作られるようになる。(当時、どの地域に有っても地域の財産であるこうした技術は門外不出で有ったと想われるが)丹後地方との通婚によって、手織り技術は容易に伝習された。この地域の湿潤な気候風土も合い、農業の副業的存在として産地化された。

このような諸種の理由から但馬では綿絲、綿織物工業は皆無である。これは兵庫県の他の地方(南部)と大いに違ふ点である。絹織物は出石地方の縮緬が大部を占め、郷土唯一の機業であった。

■リヨンと養蚕秘録

関連記事 2018年6月7日 リヨンと養蚕秘録

フランス第二の都市であるリヨンは、絹と織物の街として栄えてきた町なのだが、1855年にヨーロッパ全土に広がった蚕の病気がリヨンの絹織物産業に大打撃を与えた際、その助けになったのがシーボルトが持ち帰った上垣守国(注)による『養蚕秘録』であったことなどを知った。その後富岡製糸場などが建設される。養蚕秘録は但馬の絹の品質があまりよくなかったので品質向上のためにまとめられた本だが、この本の優れた点は、字を読めない農家の女性や子供にもわかりやすいように挿絵を多く用いていたことだ。

上垣守國の『養蠶秘録』がヨーロッパの絹糸産業を救った話ー奥正敬
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl212/pdf/212-27.pdf
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl212/pdf/212-28.pdf
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl212/pdf/212-29.pdf

上垣守国 【うえがき・もりくに】
1753-1808 江戸時代中期-後期の養蚕家。
上垣守国(1753-1808)宝暦3年生まれ。但馬の国(兵庫県)養父郡(やぶぐん)蔵垣村(兵庫県大屋町)の庄屋。文化5年8月15日死去。56歳。通称は伊兵衛。号は仙栄堂。生年は宝暦1年説もある。蚕種の産地であった陸奥の国(青森、秋田、岩手、宮城、福島各県)を頻繁に訪れて蚕の飼育を学んだ。その成果を纏めたのが『養蠶祕録』である
(京都外大附属図書館 http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france19.htm

▶︎ 但馬の絹〜 丸源太田 但馬ちりめん 
 http://tanto-life.com/product/product.php?cid=3

【浜坂針】

■浜坂針

かつて、縫針の生産が盛んな時代があった。この針工業は、1799年(寛政11年)頃、市原惣兵衛によって長崎から縫針製造の技術が導入されたことに始まる。市原惣兵衛は、1771年(明和8年)頃、浜坂の市原小平治の3男として生まれ、24歳の時、医学の修行のため長崎に留学した。その時、長崎の縫針製造に着目し、技術者2名(喜五郎、武兵衛)を連れ帰り縫針業を始めた。 最初は、火力を使う仕事であるため周囲から反対があった。本格的に縫針生産が行われたのは、惣兵衛が亡くなった1835年(天保6年)以降であり、「みすや針」として全国に知られた。 現在も宝石針、機械針などの新しい針工業としてその名を残している。

元来浜坂針は縫針に限られていて、古くは針穴を手工を以てあけていたので糸切れがせぬと大変珍重がられた。併しその後機械による安価な大量生産品と対抗するため従来の手工製品は廃れてしまった。ただ、機械を使用するとしてもなお細密で特殊な技能と工夫を必要とするものであった。浜坂が原料を阪神に依存しており、移送に不便であり、工業の立地的意義は乏しくともにもかかわらず依然として継続されているのには、伝統的な高い技術と地理的習慣性に基づくものである。

■浜坂針の由来

由来名産又は名所と称せらるるものには其原因を探求すれば多く済世的熱誠家の犠牲が払われている場合少なからず、例えば宇治茶に於ける僧の栄西、甘藷に於ける井戸代官の如きこれなり。而して浜坂縫針に就ても其例に洩れず、斯業の創設は今より百数十年前即ち徳川の中頃に浜阪町の人市原惣兵衛の長崎より苦心惨憺の末輸入伝賚せしものなり。

 当時同地方は幕府の直轄に属し毫も政治的利益の輻湊することなく地勢概ね狭隘にして耕田山野に乏しく従って町民の大半は漁業に従事せりと雖も港口不良にして漁船の出入に不便なると冬季又は天候不良なるときは漁撈に従う能わざる状態にあるを以て細民の困窮すること甚だしく又一方に於ては居常遊逸の風習を増成し道徳日に廃頽しつつあり。

 惣兵衛の家は代々医を業となし家産裕かなりしを以て二十四才のとき即ち寛正年中医術を学ぶため笈を遠く長崎に負いて修行せり。彼が一日患者の代診の為某家に赴きたる際縫針製造を見て翻然期する所あり。即ち之れを故郷に伝来して町民に授け貧困と堕落の極にある彼等を救済するは医術に優る医術なりとし爰に於て志せる医術の研究を擲ち親属旧友を顧みず自家の全財産を傾尽して秘法とせられたる針製造を学び得て郷里に齎し爾来漸次隆盛となりたるものにして浜阪町民が彼れより受けたる恩恵や没すべからざるものなり。浜阪人家を距る町余の丘上に建設されたる墓石には針之元祖市原惣兵衛と刻されて今尚町民より徳とされ居るを見る

出典/神戸大学 電子図書システム 神戸又新日報 1916.8.28(大正5) 滅び行く浜坂針

■浜坂針から〜現在 

JICO 日本精機宝石工業株式会社
http://www.jico.co.jp/index.html
レコード針、カートリッジ、アナログ製品の通販
https://jico.online
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追記 2013年9月2日

上の浜坂針の記事を読んで、九州大分の合氣掌療術院院長 萩原 俊明(はぎわら・としあき)さんが記事を書いてくださった。「何故青年医師は縫い針にビビッときたのだろう 」という興味をそそるタイトルで。わたしは、素材の事ばかり気になっててその辺を掘り下げてなかったから、萩原さんには、良い機会をくださってありがとうと伝えたいです。
鍼灸師の萩原さんだから、この針の記事に目を留めてくださったんですね。

即ち之れを故郷に伝来して町民に授け貧困と堕落の極にある彼等を救済するは医術に優る医術なり

この下りは感動的であり、且つ本質的である。
病は病だけを治そうとして治るものではないからだ。
そのことは今も昔も変わらない。

こういう素晴らしい人がこの町の文化を育てたんだと言う事を心に刻んでおきます。

針屋の事を検索していて、歴史の紹介と浜坂の町の家々を美しい写真のページを見つけました。雨や雪にあらわれた古い板壁の見慣れた街角の家々がなんとも風情が有って美しいものだなと、毎日見ている目には見えない何かを見つけました。

▶︎ 新温泉町浜坂の町並み 
http://matinami.o.oo7.jp/kinki2/sinonsen-hamasaka.html

糸車を回しながら、麻蒔き桜の話を聞く

 ミニディサービスの会場ユートピアはまさかでの6回目の講習日の今日は,いつもより少し遅れて行くと、もう糸車も綿くり機も、織り機も、動いていた。ヘルパーのお二人ももう慣れたもので、綿の説明も道具の説明も言う事無し。

毎回、織りに関する情報を、懐かしい思い出話とともに聞かせて頂いている。前回は久斗山と,境と云う地域の方々で、織り機の前で「山着と裂き織りの帯」の話題になった。実は近所のおばさんから、この山着と裂き織りの帯,頂いていたのでどんなものか知っていた。私がそれを言うと、もう捨てようかと思っていたけどもらってくれるかとおっしゃる。ありがたい話しだ。

 今日は諸寄の方々。ひょんなことで最近気になっていた事柄に付いてまた良い話しを聞けた。有るおばあさんは昔より掛けに糸車を使っていたそうで、道具に向うかたちも決まっている。違うのは糸を引き出す事だけでよりをかけ巻き取る事は小さい頃から親に教わっていたそうだ。絹も、麻も、綿も触った事が有るらしい。聞くと、親ね(おやね、親の家実家の事)は竹田(新温泉町竹田)の泰雲寺の側。

温泉町泰雲寺のしだれ桜は、樹齢250年を超えると言われており、兵庫県の天然記念物にも指定されています。しだれ桜の高さは15m、目通幹廻り5.25mあり西日本で最大の大きさを誇り、全国でも6番目の大きさです。泰雲寺のシダレ桜の例年の見頃は4月上旬頃です。この時期、地元では麻の種子をまくことから、別名「おまき桜」とも呼ばれています。
(http://kobe-mari.maxs.jp/onsen_town/taiunji.htm リンク切)

 おばあさんの親ねは、泰雲寺のしも(下)に有って、お寺の上の方に畑が有り其処で「苧」を育てていたそうだ。大麻の事である。土地のお年寄りにお話を伺いに行こうかと考えていたところだったから、念じていると近づくもんだとえらく感動した。


 今日はまたもう一つの「苧(麻)蒔き桜」を見つけた。竹野町椒(はじかみ)の「おまき桜」(麻蒔桜)のこと。

丹後の絹から、出雲の木綿絣を繋ぐ山陰海岸の土地に昔どんな織物が存在していたのか、そんな事を知らず知らずに私は探していた。いつかちゃんと地図を作ろうと思う。

後日ここで織った布をテーブルセンターに仕立てた。いい感じ。
⚫︎ がたがた・でこぼこにも味わいが有る