和田付近の道端にヤシャブシの雄花がたくさん落ちていた。
その下の方の山苧はもう大きくなっていたけれど、今日はとらずに公民館に向かう。
花壇もユーカリの鉢も元気にしてた。プランターはやはり詰めすぎだわ。。
たくさん芽を出したのに植える場所のなかった綿の苗を公民館の庭に植えた。
ここって子供達がドラム缶くぐって遊んでたとこかな。
ここだけはスコップで土が掘れた。他は土がガチガチで植えられない。
小枝をさして「ここ花壇です〜」という印にした。
お昼になり家に帰る。いいお天気で木苺がつやつやと赤く光っている。
荷物を車に置いたままバケツを持ってイチゴ摘みに向かう。
食べ食べ、イチゴ摘み。帰りすぐジャムにする。
今日は素焚和糖とレモンの代わりにクエン酸を使う。
さて、そろそろ山苧の皮むきの季節になった。
2011年BS1未来への提言 元フィンランド教育大臣 オツリペッカ・ヘイノネン氏に聞く
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=nlfXcIK_rqM?rel=0]
『私たちは教育の機会の平等がなければ、教育の質の向上は不可能だと考えています。教育を受ける機会の平等は全ての前提です。平等を保障する制度は、私たちフィンランドの教育の礎となる最も大切な原則です。それは、子供が首都のヘルシンキに住んでいようが、遠く離れたフィンランドの北部に住んでいようが、他の子供と同じ機会が与えられる、そのような国を作るということです。どうやって誰一人落ちこぼさず、誰もがついて行けるようにするか。ここで重要なのは、人はそれぞれ違うということを理解することです。学習の仕方も人それぞれなのです。学習意欲がどこから湧くのかも人それぞれなのです。様々なアプローチの仕方を考慮すべきです。ですから誰もがついて行けるという基本原則と同時に、教育システムにはある程度柔軟性がなければなりません。
『子供を育てるには村が必要』という格言がありますが、フィンランドでは皆社会全体で教育制度を支えています。これは人々が互いを思いやる社会をどうやって築くかということです。人はそれぞれ違うということを理解し、自分と異なる人を受け入れ、コミュニケーションをとることができる。そのことは自分の強みになると気づくべきです。他人を理解するには、まず自分を知らなければなりません。自分に価値があるということを、知らなければなりません。そのことを通じて他の人もまた、かけがえがないということを理解し、他者と協力することができるのです。これもまた教育の役目です。どうやって自分を知り他者の価値を知り、他人を傷つけたり、他人を脅威とみなすような、自己中心的な人間にならないようにする。これこそが福祉国家のベースになるのです』