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日本海

 

4月13日 鳥取からの帰り

バイパスの道をそれて七坂八峠を走る。

県境の手前、東浜が見おろせる高台で車を止めた。

こんな夕日を見るのは、何ヶ月ぶりだろう。

 

名残惜しげに、ゆっくりと車を車道に回した時

茶色い看板の白い文字が目尻をかすめた。

 

核の無い世界を

 

ラッセル=アインシュタイン宣言

バートランド・ラッセルのポータルサイト
(1955年7月9日発表)(松下彰良(訳))より引用


人類が直面している悲劇的な状況の中、科学者による会議を召集し、’大量破壊兵器’の開発によって生ずる危機について評価し、ここに添えられた草案の精神において(最後にあげた)’決議’について討議すべきであると、我々科学者は感じている。

私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、’ヒト’という’種’の一員としてである。世界は紛争に満ちている。そうして、全ての小規模な紛争の上にかぶさっているのは、共産主義と反共産主義との巨大な戦いである。

政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題のいずれかに強い感情を抱いている。しかしできるならば、そのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員として反省してもらいたい。

私たちは、一方の陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、全ての陣営がその危険を回避する望みがある。

私たちは新たな思考法を学ぶ必要がある。私たちが自問しなければならないのは、私たちがいずれの陣営を好もうと、自分の好む陣営に軍事的勝利をもたらすためにはいかなる手段(処置・方法)をとればよいかということではない。なぜならそうした手段はもはや存在しないからである。私たちが自問すべきは、双方に悲惨な結末をもたらすにちがいない’軍事的な争い’をいかなる手段をとれば防止できるかである。

一般の人々、そして権威ある地位にある多くの人々でさえも、核戦争によっていかなる事態が発生するか、未だ認識していない。一般の人々はいまでも都市が抹殺されるくらいにしか考えていない。(たしかに)新型爆弾が旧型爆弾よりも強力だということ、原子爆弾なら1発で広島を抹殺できる(た)のに対し、水爆なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような巨大都市を抹殺できるだろうことは、一般に理解されている。

水爆戦争になれば大都市は消滅するだろうことは疑問の余地がない。しかしこれは、私たちが直面しなければならない小さな悲惨事の1つである。仮にロンドン、ニューヨーク、モスクワのすべての市民が絶滅したとしても、2、3世紀のあいだには世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾はこれまで想像されていたよりもはるかに広範囲にわたってしだいに破壊力を拡大できることを理解している。

ごく信頼できる権威筋によると、現在では広島を破壊した爆弾の2,500倍も強力な爆弾を製造できるとのことである。もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。そしてそれらの粒子は’死の灰または雨(いわゆる「黒い雨」)’の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁師たちとその漁獲物を汚染したのは、この’死の灰’であった。そのような死をもたらす放射能に汚染された粒子がどれほど広く拡散するのかは誰にもわからない。しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性があることを指摘している。もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅 -即死するものはほんのわずかだが、大部分のものは長い間病気の苦しみを味わい、肉体は崩壊してゆく、という恐れがある。

著名な科学者や権威者たちや軍事戦略の権威者から、多くの警告が発せられている。(にもかかわらず、)最悪の結果が必ず起こるとは、だれも言おうとしない。彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、そしてだれもそういう結果が実際起こらないとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が彼らの政治上の立場や偏見に少しでも左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになったかぎりでは、それらの見解はただそれぞれの専門家の知識の範囲にもとづいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しをもっていることがわかった。

さて、ここに私たちが皆さんに提出する問題、きびしく、恐ろしく、そして避けることのできない問題がある -即ち、私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか? -戦争を廃絶することはあまりにも困難であるという理由で、人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。

戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし、おそらく他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあるだろう。危険は単にぼんやり感知される’人類’に対してだけではなく、自分自身や自分の子どもや孫たちに対して存在するのだが、人々はそれを想像力を働かせることによって認識することは、ほとんどできない。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみもだえながら死滅するという、切迫した危険状態にあるということをほとんど理解していない。そうして人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、戦争は継続してもかまわないだろうと、思っている(希望的観測をしている/楽観している)。

この思い(希望)は幻想である。たとえ水爆を使用しないといういかなる協定が’平時’(平和時)に結ばれていたとしても、戦時にはそのような協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起こるやいなや双方とも水爆の製造にとりかかるであろう。なぜなら、もし一方が水爆を製造して他方が製造しないとすれば、水爆を製造した側はかならず勝利するにちがいないからである。

軍備の全面的削減の一環としての核兵器放棄に関する協定は、最終的な解決には結びつかないが、一定の重要な役割を果たすだろう。第一に、およそ東西間の協定は、緊張緩和を目指すかぎり、いかなるものであっても有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることを双方が信じていれば、現在双方を神経質的な不安状態に落とし入れている’真珠湾式の奇襲攻撃の恐怖’を減らすことになるであろう。それゆえ私たちは、ほんの第一歩ではあるが、そのような協定は歓迎すべきである。

大部分の人間は感情においては中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを忘れてはならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で解決され、誰もが ―共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、またアメリカ人であろうと、また白人であろうと黒人であろうと―、何らかの可能な満足を得られなくてはならないとすれば、それらの問題は戦争によって解決してはならない。私たちは、東側においても西側においても、このことが理解されることを望んでいる。

私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができないからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか? 私たち(宣言署名者)は、人類として、人類に向かって訴える― あなたがたの人間性を思い出し、そしてその他のことを忘れなさい、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかって開けている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死(全体的破滅)の危険が横たわっている。

 

決 議:

 

私たちはこの会議(後のパグウォッシュ会議)を招請し、その会議を通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、以下の’決議’に署名するよう勧める。

「将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」

 

1955年7月9日 ロンドンにて

 

M.ボルン教授(ノーベル物理学賞)

P.W.ブリッジマン教授(ノーベル物理学賞)

A.アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)

L.インフェルト教授

F.ジョリオ・キュリー教授(ノーベル化学賞)

H.J.ムラー教授(ノーベル生理学・医学賞)

L.ポーリング教授(ノーベル化学賞)

C.F.パウエル教授(ノーベル物理学賞)

J.ロートブラット教授

B.ラッセル卿(ノーベル文学賞)

湯川秀樹教授(ノーベル物理学賞)