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草木染の事

夜中に書き物をすると、どうも書きそびれた事が有って、一日気になっていた。何がそんなに気になっていたかと言うと、「布になったものに草木で染めるのは何かもったいない気がして」と書いた事。あくまで私がその頃使っていた素材と技法での話で。薄布なら無地に染めたり、筒描きや、和更紗も織ではないけれど草木染めで良いものが作れる事を書き加えて置いた方がいいかな。。とそんな事をちょっとおもってたら、こんな資料を見つけたと教えてくださったので、かなり昔の資料なのでちょいと、掲載致します。(日々の事は私の大事な資料置き場なもんで。。)昭和56年の発行の手仕事という冊子より。(写真は、貼付けてあった実物のサンプルだそうです)

藍甕の朝
三島の紺屋  井上 一雄

富士の白雪がとけて涌き出た水は、以前は三島の町の中を機筋にも流れて、この涌き水を使って数多くの紺屋とその下職があった。西洋から化学染料が入って来た明治の中頃までは、染料は「染め草」と言って草根木皮が使われたのが藍染だった。淡い水色から、くり返し染めると納戸(なんど)になり、更にくり返すと紺になる。藍は日本人の染色の基調になったものである。染物屋が紺屋(こんや、或いはこうや)と言われたのも、藍染が最も大事な仕事であったことを物語っている。その頃の紺屋の広い土間には、大きな藍がめが四十も、多いところでは八十個もすえられて、その中で藍が発酵され(建てる、と言った)その中に布や糸が入れられてくり返し染められていた。その当時は、農家では家族の着る物は、その家の女衆の手によって織られた。その糸や織布が遠近の農家から三島の紺屋へ持ってこられて染められた。「紺屋使いと云って、朝早く眠い目をこすりながら、三島の紺屋へ糸や布を持って使いをするのが女の子の仕事だった。藍は多くは阿波の徳島から来た藍玉を使って、藍がめに建てられていた。その技術は、秘伝とされて、紺屋職人の一番苦心したもので、「酒杜氏はあっても、藍杜氏はない](酒作りの名人はあっても、藍をたてる名人はいない)と言われるほどに、そのコツを会得するまでには長い年月の経験が必要だった。藍がめの藍が、年中同じような状態で醗酵するのを維持するためには、冬は火を入れてあたためるなど、藍を守ることは紺屋の死活を左右する大事なことだった。藍で染められた代表的なものに唐草のふとんがある。その頃の嫁入りぶとんには、鶴亀や松竹椅をもようにしためでたい柄が染められていた。もめん地の畑に棉を作って、それから棉を採り、糸に紡いで手機にかけて織られるまでの労苦は、当今の人々には想像もできないだろう。それを唐草に染めてふとんを作った時には、赤飯を炊いて祝った
と言われるほどである。藍の他には、やまもも、やしゃ、くちなし、きだ、刈安などが染料として使われ、赤の色は、べんがらが用いられた。染められた糸や布は、日当りのよい場所に、「張り場」という広い庭が設けられ、そこに布が張られ、糸がほされていたのである。

紺屋にはいろいろな下職があった。五月のぼりの武者絵などを書く下絵師、それに糊を置く糊置屋、唐草や小絞の型をつける型付屋、紋を書く紋屋などだ。明治の文明開化は日本に産業革命をもたらした。此の街の紺屋も例外ではない。西洋から入ってきた化学染料は、小さじ一杯の量で多彩な色を作り出すとともに、染色は工業化されて、紺屋職人の長い経験による勘やコツによる染色は不要となった。三島の紺屋とその下職の数もだんだんに減って、大正の末期には、紺屋の土間に藍ガメを見ることはできなくなったのである。